父と息子

2000年08月05日

 本格的に山に登り始めたのは新聞社に入社してからである。
編集局校閲部に配属になった私は、くる日もくる日も上がってくる原稿とゲラを見比べていた。それが仕事である。
写真部の先輩に誘われるままに日光の白根山に登ったのは入社したその年の梅雨の合間の晴れた一日だった。

山の東斜面に咲き誇ったシラネアオイがまぶしかった。
前白根までの日帰り山行だったが翌週には一人、奥白根の山頂にいた。
それはまさに、のめり込むと言う表現がぴったりするような見事なはまり具合だった。その年の秋には局の先輩と北・アの穂高に登った。岳沢から前穂、奥穂そして北穂へと縦走した。
北穂の小屋で持ってきたウイスキーを飲もうとしたが体が受け付けず早々に布団に入った。
 翌年は私の生まれ故郷・那須を徘徊した。
残雪の五月から登りだし夏、秋をやり正月にも行った。毎週である。
あの亡くなった煙草屋のおやじに遭ったのもこの頃である。
春から夏にかけてひとことも言葉をかわすことのなかったおやじが初めて声をかけてきたのは、峠の茶屋付近まで木々が色づいてきた秋だった。
 一昨年、胃がんで逝った父はこんな私をどんな思いで見ていたのだろう。
山を始めてから五年目あたりで本格的に冬山をやるようになった。せめて正月くらいは、と思い元日の酒は親父と飲んだ。
午後になるとほろ酔いかげんでザックに山の道具を入れ出す私を見ても父はなにひとつ言わなかった。母も弟もなにも言わず、ただ祖母だけが、
「気をつけて行ってこいな」
とだけ言った。
 戦後の混乱の中で青春を送った父は趣味らしい趣味はなにひとつない。
子供である私が山にのめり込む様子を見て父はある種、羨望の想いをいだいていたのかも知れない。
山に入った私は幸せだった。日々の仕事は忙しくもあり、煩雑さに振り回されていた。そんな騒音が山ではぴたりとやんだ。
だれとも話さない幸せ、だれにも気をつかわない幸せ。
一人でいることの幸福感は山に入ることによってのみ満たされていた。
 山登りの楽しみ方も時とともに変わっていった。
頂上を目指す山登りでなく、ただ登山道を歩いているだけて゜幸せな気分になる時期があった。わざと頂上まで行かない山もあった。中腹まで来て別のルートをたどる。途中からまた引き返し下り出す。
そんな山歩きが楽しくて仕方ない時期もあった。
ガンコウランを日がな一日採り、すれ違う登山者から奇異な目で見られたこともあった。
ある特定の山域を集中的に登る楽しみをおぼえたのも、このころからだった。
南会津の山は二年かけてやった。
残雪期に登った会津駒を夏には会津田代から眺める。
一週間、人間に会うことのなかった平ケ岳。
土地の古老となにひとつ言葉もかわさずに入っていた桧枝岐の共同浴場、時が止まったような空間がそこにはあった。
南会津の山は久しぶりに訪ねた古い友人の母の匂いがした。いくつになっても子供扱いされる心地よさがそこにはあった。
 仲間と登る山も楽しい。
一人ではあんなに重かったザックが驚くほど軽くなった。それはあながち荷物を分担しただけの軽さではない。だれかが息を切らしたら休み、稜線でガスが切れたら皆で歓声を上げる。
頂上での賑わい、テントでの笑い声。
それはすべて一人の山では味わえない楽しみだった。
三人から五人、その友人から友人、ザックの軽さがそのまま心の軽さになる。
 いつまでも山に登り続けたいと思っている。
私は息子に言った。
「今年の夏休みにお父さんと山に登ろう」
「いやだ、疲れる」
小学四年の息子は正直である。
いつか息子と二人で山に登りたいと思う。
たぶん私の父も、そんな想いで私の山支度を見ていたのだろう。





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