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 日光・白根山の思ひで
 
 
 
            
              
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                                | 私が初めて日光・白根山に登ったのは、たしか昭和54年の6月だったと記憶している。 新聞社の三人の仲間と登った。写真部の岡田次長がリーダーとなり、編集局整理部の元木先輩、工務局写植の稲川くん、そして編集局校閲部だった私と四人で登った。
 金精トンネルの入り口に車を止め、すぐ金精山の尾根にとりついた。登り始めはメガネがくもるくらいの小雨だったが、1時間ほどで雲間に青空が見え隠れしてきた。
 大人の背丈ほどのハクサンシャクナゲが登山道の両側に薄ピンクの花を咲かせていた。しばらく登ると雪渓があり、山ザクラが満開に咲き誇っていた。
 ここで岡田次長はさかんにシャッターを切っていたが、それが三日後の第二社会面に載った。
 
  奥白根山と五色沼
 五色山の山頂まで3時間かかった。ザックを肩から下ろした瞬間、からだが浮くような気分になったのを覚えている。急いでビールを雪渓に埋めたが冷えるまで待てなかった。生ぬるいビールで乾杯し、眼下に見える五色沼からまっすぐに視線を上げていくと、そこに白根本峰がどっしりと腰を据えていた。それはまさに腰を据えたとしか表現しようがないほど、どっしりとしていた。
 その日は前白根まで登り五色沼に下り、そこでシラネアオイの大群落を目にした。
 その姿は十五歳から十七歳くらいの少女たちの集団に見えた。美しさといふよりも、まだ自分たちの可憐さにさえ気づかない、さわやかな思春期の嬌声だけが、まぶしく耳に響いていた。
 あまりにも男性的な風貌を持った白根本峰と、可憐すぎるシラネアオイの妙なアンバランスが私をとりこにした。
 日帰りの山行だったが、翌週にはひとり私は白根本峰の頂にいた。
 明けて昭和54年2月、「白根山で遭難」の一報が栃木県警から局に入った。
 太田編集局長は、再三、止めたが岡田次長は聞かなかった。
 取材だと言ってひとり厳冬の白根山へ向かった。
 翌日の夕刻、社の屋上に一羽の伝書鳩が舞い降りた。社会部のキャップ徳田次長がその足に結ばれていた小さなビニールの包みを見つけ、開けて見るとフィルムの切れ端だった。
 急いで3階の写真部の部屋に持っていきプリントを指示した。
 遭難者を肩にかついだ救助隊の写真だった。
 次の日の1面トップにその写真が載った。
 岡田次長は翌朝、右手に包帯をまいて出社してきた。
 「さすがに雪の中に1時間も手を入れておくと冷えるな」
 岡田次長の右手は凍傷にやられていた。
 雪を溶かし現像をして社に届けようと考えていた。
 「フィルム一本だと重くて鳩がかわいそうだからな――」
 
 岡田次長の右手の人差し指と中指は第二間節から失われていた。
 彼は、その後も写真を撮りつづけた。カメラを逆さに持ち、左の親指で器用にシャッターを押す。
 「フィルムを逆さにすれば、もとの写真になる」
 真っ黒い顔の中で白い歯が笑っていた。
 シラネアオイを愛してやまない彼は、七十歳を過ぎたが、毎年六月には白根山に登っている。
 
 その年の十月に私は新聞社を退社した。
 私に山登りを教えてくれた岡田次長は、私が退社するその日の最終降版の輪転機が止まったのを見計らって3階の写真部の部屋から4階の編集局へ上がってきた。
 私の机に近づいてきて、つぶやいた。
 「いくつになっても、シラネアオイがきれいだ、と言える男でいろよ」
 岡田次長の白い歯だけが、私の退社をさびしがっているかのように思えた。
 
 
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