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 第12章 雨の道玄坂
 
 
 
            
              
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                                | 五月半ばにしては冷たい雨が、北川の傘を濡らしていた。 ――雨の渋谷でデートか――
 四国の大学を出た北川は東京には縁がない。
 時計の針は午前11時を少し回っていた。
 ――どうして玲子さんが、わしに会いたいなんて言ってきたんやろ――
 栃木県の地方紙に載った玲子の遭難事件など小田原に住む北川は知る由も無い。
 十代の少女たちが色とりどりの傘の花を雨に濡らしながら、道玄坂に押し流されていく。
 「お久しぶりです。北川さん」
 突然、ハチ公前の待ち合わせ場所に現れた女性が、あの玲子だとわかるまで北川には時間がかかった。
 「あっ、玲子さんですか?」
 「イメージチェンジしたの、わたし」
 北川は玲子を山でしか見たことがなかった。
 帽子を目深にかぶった肩までかかる長い髪の女――
 北川の目の前にいる玲子は別人だった。
 「去年の白馬以来ですね」
 夏の那須、そして秋の白馬での玲子との偶然の出会い。
 それはもちろん隊長によって仕組まれた出会いだったが、北川には隊長と玲子の関係など知る訳もない。
 「雨の中、ごめんなさい。突然呼び出してー」
 「いや、どうせ暇ですからー」
 暇ではなかった。
 北川には二人目の子供が出来、両親を寄んだり、お宮参りの予定など何かとこの時期忙しかった。
 妻には嘘を言って上京した。
 「大学の同期に会いに行く」
 北川の妻は疑わない。アパートを出る時、宗太郎の泣き声が彼の背中にしみるようにふりかかった。
 後ろめたさが少し北川の脳裏をかすめたが、新幹線に乗った瞬間から彼の頭の中は玲子のことでいっぱいになった。
 なにも期待していないと言えば嘘になるが、それよりもなによりも北川には玲子に会えることだけで胸が高鳴った。
 那須の青い空も、白馬の燃えるような紅葉もその全てがひれ伏すような美しい女性。
 (わし、結婚、早かったかな――)
 「コーヒーでもいかが」
 北川の思いなど頭の片隅にもない玲子が微笑みかえした。
 「はいっ、」
 東急の地下で二人は山の話で盛り上がった。
 「お食事でもしましょうか」
 「そうね、私、お腹すいちやったわ」
 二人は傘を並べ、人の流れにまかせ道玄坂を歩き出した。
 東京を知らない北川は気のきいたレストランなど、どこにあるのか全くわからない。
 ヤマハを過ぎて、坂を登りきったあたりで、交差点を横切った。
 いつの間にか円山町に入り込んでいる。言わずと知れたホテル街である。
 傘の中で抱き合うように一組のカップルが目の前のホテルから出てきた。
 北川は心臓が震えているのが自分でわかった。
 ――何を考えているんや、わしは――。
 ふと気づくと、北川の左腕に玲子の手がからみついている。
 さっきまで別々の傘で歩いていたはずが、いつの間にか玲子は自分の傘をたたみ、北川に寄り添っていた。
 玲子はうつむいたまま、だまって北川の手を握った。
 ――細い指だな――。
 と北川が思った瞬間、彼の何かがくずれた。
 [ご休憩]のネオンが似つかわしくない、そこは高級なホテルだった。
 二人は言葉を交わすことなく入り口のドアを開け、正面のエレベーターに乗った。
 
 
 平成十二年十二月、伊豆・伊東温泉での山岳部の忘年会の帰り、筆者はこの円山町にほど近いビジネスホテルに宿をとり、ネオン街を徘徊し、したたかに酔って円山町近辺を歩き回った。
 その三年前になる平成九年三月八日深夜、渋谷区丸山町の木造アパートの一室で東電OLが何者かによって殺害された事件――。
 昼は東電のエリートOL、そして夜は売春婦という衝撃的な事実が明らかになりマスコミが盛んに取り上げた事件である。
 事件当時、さまざまな憶測が世間を飛び交った。
 この事件に関する詳細なルポがある。
 [東電OL殺人事件]  (佐野眞一著 新潮社)
 人の心に住む曼荼羅絵巻、一人の女の心に住むおぞましくも美しい闇の魔界。
 俗すぎる恋愛小説を書く本能そして宿命は筆者を酩酊の世界へと押し込み、歓楽街のネオンが冬空のしじまに溶け込むまで、しとどに酒に溺れた。
 翌日、二日酔いで痛む頭をかかえながら、事件現場となったアパートに足を向けた。
 井の頭線神泉駅まで歩く商店街、まだ出勤途中のサラリーマンやOLが急ぎ足で駅に流れ込んでいく。
 事件現場近くの道路をはさんだ向かいの土地は新しいマンションでも建つのか、朝早くから工事の機械が入っていた。
 目的のアパートはすぐわかった。
 古びた木造の建物である。
 筆者は思い切って事件のあったと思われる一階の部屋のドアの前に立った。
 師走の早朝、都会とはいえ風は冷たい。
 女が殺された部屋のドアの前だけに生ぬるい空気がよどみ、音の無い漆黒が筆者の全身にまとわりついた。
 鳥肌を全身に感じながら、闇の迷宮に立ちすくむ女に合掌をした。
 ほどなくアパートを離れ、渋谷の駅へ向かう筆者の足取りは重く、冷たい雨がいつまでも肩を濡らした。
 
 北川もいままで経験したことのない世界に入り込んでいた。
 午後五時発の新幹線に乗った彼は思考能力が完全に停止していた。
 列車のドアがいつ閉まったのか、列車がいつ発車したのか、北川は気づかないまま、ただ車窓を濡らす雨だれを見つめていた。
 小田原に着いて、北川は駅前の焼き鳥屋に飛び込んだ。
 「オヤジ、酒だ!」
 とは言わない。
 「すみません、ビール下さい」
 いっきに中ジョッキをのどに流しこんだ。
 北川の脳裏にはまだ数時間前の余韻が残っている。
 玲子の髪、玲子の細い指、そして玲子のしなるような柔肌の肢体。
 「オヤジ、酒だ」
 今度は、ほんとに言った。自分でもびっくりするくらいの大きな声が出た。
 カウンターに腰掛けた北川は、調理場で手際よく魚に包丁を入れる板前を見つめている。
 「わしには出来ん、隊長を殺すなんて!」
 「えっ、何か言いましたか? お客さん」
 カウンターの向こうから店の従業員が聞いた。
 「あっ、タン、タン塩とレバー下さい」
 
 数時間前のベッドの中での玲子のささやきが北川の耳にしだいに大きくなり、波のように何度も襲ってきた。
 ―――ねぇ、北川さん、隊長を、香山俊介を殺して―――
 玲子は北川の胸に体をあずけ耳元でささやいた。
 そしてそのまま北川の耳をかるくかんだ。
 「いたっ」
 「うふ、もし殺してくれないなら、もっと強くかんじゃう」
 「だけど――」
 「だったら、こうよ」
 玲子はベッドにもぐり込み、強く握った。
 「痛いよ、玲子」
 思わず北川の口から玲子と、名前が飛び出した。
 「少し考えさせてや、あまりに突然なんで――」
 「わかったわ、一週間、時間をあげる。そのあいだにじっくりと方法を考えてね」
 ふとんから顔を出した玲子は再びもぐり込み、言葉を話せなくなった。
 「うっ、そこは――」
 北川の理性がぶっ飛んだ。
 
 
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