つつじに囲まれた慈覚大師円仁堂
慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん) |
天台宗第三代主座慈覚大師円仁様は、最後の遣唐舟に乗って唐にわたり、日本の天台宗を大成させた、わが栃木県が、わが国が世界に誇る偉人であります。 円仁様は9才より大慈寺で修業をはじめ、15才のときに比叡山に登り最澄様の弟子となります。 そして43才の時、天台宗の密教を完成しようという希望に燃えて唐へとわたります。この旅の模様を円仁様自身が書き残した『入唐求法巡礼行記』は、日本人最初の本格的旅行記であり、その価値はマルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘の『大唐西域記』とともに、世界の三大旅行記の一つに数えられています。 己れの出世欲のかけらもなく、ただ人々の魂を救うため、日本に仏教の火をともすため、命懸けで仏の真の道を求め続けた円仁様の信仰の生涯は、1200年後の今も私たちの心に、深い感動を与えつづけ、受け継がれているのです。 |
円仁誕生物語 |
いまからおよそ1200年前、794年(延暦13)11月15日、下野国都賀郡の上空(今の岩舟町にある三鴨山麓とも壬生町の壬生寺寺内とも言われています)に、不思議な紫色の雲がかかりました。大慈寺の僧、広智様がその雲の下を訪ねてみると、大慈寺の檀家、壬生家に男の子が誕生したところでした。 これはきっとめでたいしるしに違いないと思った広智様は、この子はきっとすぐれた人になる、この子が大きくなったら是非私の寺に連れてきてくれないか、と頼んで帰りました。そしてその言葉のとおりに、利発な子供に育った少年は、9才の時に大慈寺の広智様のもとで修業に入ったのです。この少年こそ、後の慈覚大師円仁様なのでした。 |
大慈寺から比叡山へ |
円仁様は、並居る小僧さんたちの中でも特に優秀だった上に、努力も人一倍される方でした。 15才になった円仁様は、ある日不思議な夢を見ます。まだ見たこともないはずの僧侶が、自分の目の前に立って微笑んでいるのです。夢の中で見えない人の声を聞きます。「このお方は比叡山にいらっしゃる最澄様です」と。この夢をきっかけに、円仁様は比叡山へ登り最澄様の弟子となることを願うようになるのです。 |
才能の開花 |
最澄様の弟子となった円仁様は、次第に頭角を現し、最後には最澄様の代理に講義をされるまでになりました。そして最澄様がなくなる直前には、最澄様より一心三観の妙義を伝授されるのです。 最澄様の死後、円仁様は比叡山で6年の修行をされた後、日本各地を訪れて布教に、救済にと粉骨砕身されます。特に東北地方への布教は特筆すべきものでありました。 その後、病を得られて比叡山の横川で療養されますが、奇跡的に快復されます。 |
遣唐僧となる |
43才になったとき、円仁様は遣唐使一行とともに短期の留学僧として、唐に向けて出発します。天台宗の密教を完成しようと、また延暦寺未決三十条を解決したいという、強い希望を持っての出発でしたが、実はこれは足掛け9年にも渡る大冒険への出発の時であったのです。 唐に渡った円仁様は、時を惜しんで仏法の修業に励みましたが、留学の条件など様々な制約があったため、天台宗の発祥の地である天台山へゆくための許可を得ることは叶いませんでした。本来ならそのまま遣唐使一行と共に日本に帰らなければなりませんでしたが、円仁様の求法の思いは強く、その熱情はついに、遣唐使一行を離れ、自力での旅を続ける事を決意させたのです。 異国での、許可を得ない旅は危険であり、想像をこえる困難の連続でありましたが、弟子の惟正、惟暁、従者の丁雄満と共に歩き続けた円仁様は、天台山同様、名だたる仏教の聖地、五台山に辿り着き、修行をすることが出来たのです。 五台山巡礼を終えた一行は、さらに当時世界最大の国際都市である長安に向かいました。長安での修行と求法を通じ、密教の点で大きな成果をあげました。 しかしながら、この長安(資聖寺)で弟子の惟暁を32才の若さでなくします。辛く困難な道程を共に歩んだ愛弟子を亡くした哀しみはどれほどのものであったでしょうか。そしてさらに「会昌の廃仏」と呼ばれる皇帝武宗による仏教弾圧の苦難にあうのでした。絶え間なく命の危険にさらされ、苦しめられた円仁様ですが、仏教を日本に持ち帰りたいという信念が実を結び、ついに9年半ぶりに、日本へ帰りついたのです。 この旅の間、円仁様が書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』といい、日本人による最初の本格的旅行記であり、歴史学的にもたいへん価値がある書物とされ、現在では広く外国にも紹介されています。そして世界の三大旅行記の一つに数えられています。 |
天台座主へ | |
その間に、故郷にある大慈寺の第四代住職になったと伝えられています。 そして円仁61才のとき、比叡山の延暦寺三代天台座主に迎えられました。 それから71才で熱病にかかり亡くなるまでの10年間、最澄様の理想を受け継ぎ、比叡山の発展につくしたのです。 |
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亡くなって2年後の、866年(貞観8)7月4日、朝廷より「法印大和尚」の位とともに「慈覚大師」の賜号が師である最澄様の伝教大師とともに贈られました。 これは、日本で最初の大師号という栄誉です。 |
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