救われ方
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宗教とは何か

 宗教の本質とは何でしょうか。
一言でいえば、「自我をなくすこと」ということではないでしょうか。

 例えば、親孝行をしましょう、と奨励している宗教があるとします。そこに仮に、自分の不運は親のせいだと思う子供がいるとします。その人の発想には、「親が敵」という意識=自我が形成されてしまっています。
 それを溶かすにはその宗教の教えによって、祈りも行動も先輩の助言も必要ですが、開運の方法そのものが必要なのです。

 運のいい人は人を恨むことをしません。
 運がよくなれば、自我が減ってくる、という現象が起こるのも事実です。
 運のいい人は、自分の中に自分で目標を立て、その目標に向かって行動している人が多いようです。他人が悪いというように、責任転嫁をすることがありません。


 一番自我を減らすのに有効なのは、「感謝の念を持つこと」とよく言われています。自分の現状を受け入れることができれば、そこに神仏の光が下りてきます。神仏に譲る心の隙間に神仏が恵を垂れ、必ず開運をしていくものです。
 仮に悪い方角へ移動したとしても、神仏のご加護のために、禍が出ないということもよくあることです。
 しかし感謝の念を持てない人というのはいます。そういう方には、『般若心経』をひたすらあげていただいております。それで随分と変わるものです。

日本人にとっての宗教は、見ておりますと、どうやら日本人の血や肉になっている神社参拝がいいようですし、また江戸時代以前からの流れがあるお寺(仏教)による供養が有効なようです。

 新しい宗教に入信する人もいます。それをどういう言うつもりはありませんが、それによって、先祖代々行ってきた宗教を否定するというのは感心しません。
 価値観は時代と共に変わりますが、こと心の問題(宗教)だけはそれが通用しないようです。
 先祖の心(先祖代々の宗教)は変えてはいけません。
 もし信仰する宗教ができたならば、両方とも行うべきです。

人生のバランス

 人生に何を求めますか。お金ですか、出世ですか、よい配偶者ですか、健康ですか、平安ですか、何ですか。
 人間ですから、そのどれも望んで結構だと存じます。すべて望んでもいいと思います。
 しかしそういう幸運はすぐに転がり込んではきません。
 あるいは宗教を通じて、それらを得ようとする方がおられるかもしれません。
 しかし、お金儲けや出世そのものを、宗教を通じて求めるのはいかがなものでしょうか。
 自我がなくなって初めてお金や出世が入ってくるのが、本当の意味での開運だと思います。
 といいますのは、欲によって何かを手に入れた場合、自分の枠を知らずに、無暗にお金などを求めますと、それに反して何かを失うことになるのです。
 極端に多くの財を手に入れた途端、身内に不幸があったとか、よく聞く所です。

 中国では人間の求めるべきものを「福・禄・寿」といいます。幸福・お金・寿命のことだといいます。
 これは、その人によって器が決まっていて、どれかが増えると、どれかが減るようになっているというお話です。この話には得る所があります。

 「身の程」を知って行動するのも必要なことですね。

 ほどほどにするというのは、ある意味で、人生を送っていく上で、とても重要なことかもしれません。

人生を規定するもの

 余程のことがない限り、人は最低食べていけるだけのものを持って生まれてきていると言われています。
 ですから不幸な人というのは、自分の本来持っている「身の程」までも、自分の器を使っていないということが言えます。
 そういう観点から、私たちが開運を望む場合には、自分の器を小さいままに固定してしまっている悪い要素を排除することから始めなくてはなりません。

 では人生を制限する悪い要素とは何でしょうか。
 例えば人間には癖があります。見方を変えれば、癖によってその人の一生が決まっているといってもいい程です。
 この場合、癖というのは心の癖も含みます。心の癖がその人の人生を決めます。


 さてでは、この心の癖というのは、どのように形成されていくのでしょうか。
 ここで、人間の一生を考えてみましょう。
 人間が子供として生まれます。生まれた時点で自由ではありません。両親の制約、兄弟の制約、家(建造物)の制約など多くの要素があります。
 遺伝的な要素もあります。両親を見れば、子供と同じような因縁のある星であることが多いのです。
 両親が結婚したときに、どのように出会ったか、その因縁がずっと子供の出生まで影響していきます。
 以上見てまいりますと、私たちは自由に生まれた、と思った所で、実際は多くの制約や制限の中で生まれてきているわけです。

生きることは動くこと

 では次に、生まれてからのことを考えてみましょう。
 私たちは家の中にじっとして生活をしているわけには行きません。仕事に行かなくてはなりません。子供は学校に行かなくてはなりません。専業主婦の方でも、仕事を家庭の中でしなくてはなりません。

 この「仕事」こそ、人間に与えられた神仏からの最高のプレゼントです。これをこなしていくことが、この世での修行の大きな部分があるのではないでしょうか。
 お金がなくては生活できません。そのお金をかせぐために、人は仕事をするように作られています。何という神仏のお計らいなのでしょう。
人は生まれながらにして、仕事をするように作られています。そしてその仕事が、自分をみがき、この世で修行をする大事な行為なのです。

 ですから、よく言われていることですが、仕事には貴賎はありません。その人に応じた仕事をなさるのが一番神仏の御心に通じるものだと思います。 
 そんな仕事をするように作られた人生ですが、多くの制限があります。
 就職するときに、この仕事は自分に合うだろうか、と考える人は多いですが、いざ仕事が始まってしまうと、目の前の仕事をこなすのが精一杯、先輩の助言などを受けながら、慣れるのを第一と考える人が多いでしょう。
 もちろん転職をする人などもいますが、私たちは、この仕事との相性というのをつい忘れがちです。職種との相性もありますが、会社との相性もあります。本当はこれが大切なことです。
 さて仕事が決まりました。仕事に行くのに、徒歩や電車、車などで目的地に行きます。その間に移動があります。電車で毎日満員電車など、あれで体力を消耗してしまう人も多いようですね。
 あるいは自宅が仕事場であった場合は、移動はありません。しかしその場合であっても、材料を仕入れたり、物を運んだりと、人中心でなく、物中心の動きが出ます。
 
このように、人が仕事をする場合には、人や物が動きます。このように人や物が「動くことによって人生の諸相が生じてくる」のです。


 このように与えられている私たちの人生において、私たちはどのように生きたらいいのでしょうか。それがわかれば、「救われる」のではないかと思います。