今日、天台宗に属している大慈寺が創建された当初には、日本に天台宗は存在していませんでした。では大慈寺はいつから天台宗になったのでしょうか。

  最初期の大慈寺の宗派はよくわかっておりません。

  円仁様の大慈寺における先生である第三祖広智様は、真言宗をひらいた空海様とも、天台宗をひらいた最澄様とも親交がありました。空海様は唐から帰朝なさりますと、真っ先に広智様へ手紙を送られております。
 しかし、円仁様を修行に出す先としてどちらかを選ぶか、という段になって、広智様は最澄様をお選びになり、15歳の円仁様を比叡山の最澄様の元へにつれて行ったのです。
 それはおそらく、広智様より先の大慈寺の住職であった道忠様が、鑑真様の弟子であったというのがその理由かもしれません。何故ならば、鑑真様は天台の影響も受けた人だったのです。それで円仁様は比叡山に行き天台宗を学ぶことになりました。

  そして、円仁様が23歳の時、最澄様をはじめ、何人もの天台のお坊さんが下野、上野にやってきました。その時に、最澄様は大慈寺と上野の緑野寺で潅頂(かんじょう)や受戒という儀式を行っ たのです。それを受けた人に、円澄様、円仁様、徳円様、そして広智様など多数のお坊さんがいて、最澄様の弟子となりました。
 潅頂(かんじょう)とは密教の重要な儀式で、日本における天台の密教の始まりといってもいいようなイベントでした。そしてこのときに「日本の北方を仏法によって守るように」という願いを込め、法華経などの経典を写経し埋め、そこに相輪塔を建立しました。全国6箇所のうちの一つです。

  その相輪塔を建てるにあたって、最澄様がどのようなお気持ちであったか、長い文章の一部には、次のように書かれています。
      「護国済人 延寿安身」
 現代風に言いなおせば、
      「世の中が平和でありますように」
      「皆が幸せになれますように」

というところでしょうか。ご参拝の皆さんは、大慈寺の相輪塔の前で、このお言葉をお唱えていただいてお参りすることになっております。そして地元の伝承では、この相輪塔は三回半右回りに回ってお参りすると言われております。
 最澄様の祈りを皆様の祈りと一つにして、相輪塔の前でご祈願ください。必ず皆様の人生に変化が訪れるはずです。

  最澄様は、東国にも天台の教えを広めようとされたのでした。そのときに筑波にいた、法相宗の徳一様との論争は有名です。

  日本の天台宗は、言うまでもなく、最澄様によってひらかれました。最澄様は、それまでの、自分の出世ばかりを考える僧たちや大寺院のやり方に疑問をもち、延暦寺にこもり修行を積み、唐にわたり天台宗を学びました。どんな身分のものでも、仏教を信じることによって仏になれる、という天台宗の一乗の教えは、身分の低い人々や、貧しい人々も平等に救われるというものだったのです。最澄様は桓武天皇の信頼を受けましたが、古い仏教界とはげしく対立しました。それでも最澄様は一歩もひかず、たいへん苦労されたのです。

  最澄様は死後、お弟子の円仁様の諡号(慈覚大師)と同時に、伝教大師の賜号を送られました。

  比叡山は日本仏教の母山となり、鎌倉仏教の多数の始祖たちの修行された場でもありました。




(大慈寺の裏にある、諏訪ヶ岳。最澄様が信州諏訪大社より御霊を勧請してお祀りしたのが最初です。古い信仰の山です。)
(天気がよいときには、後ろに男体山や、前日光の横根山が見えることがあります。)

(画:田中重光さん)




                         
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