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版画家・鈴木賢二 について エッセー父と兄のいた風景


栃木県立美術館 「没後30年 鈴木賢二展」(2018年)開催図録:巻頭言より


(前略)鈴木賢二(1906年~1987年)は市井の人々をいきいきと描き続け、版画家として、彫刻家として、
そして漫画家として、昭和という困難な時代を駆け抜けました。その優れて前衛的な造形は、
近代美術史の中でも存在感を示しています。
栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に生まれ、後に北関東の版画運動を担った鈴木賢二は、
1925年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻家科に入学後、プロレタリア美術運動に熱中し、
漫画やスケッチで人物表現に秀でた才能を発揮しました。
1932年暮頃に栃木に帰郷してからは彫刻家として活躍し、やがて第三部会の会員にもなったほか、
工芸やエッチング制作など、多彩な分野への挑戦を試みています。
第二次世界大戦後には、社会運動にかかわった木版画を多く制作し、日本国内にとどまらず、
中国や旧ソビエト連邦など、国際的な広がりの中で活動しました。そのメッセージ性強い版画によって
平和を希求し、懸命に生きる人々の側に立ちつづけました。
時に時代の波に翻弄されながらも、生涯にわたって、農村に生きる人々や都市の労働者たちに
温かい眼差しを向け、子どもたちを慈しみ深くとらえ続けた美術家です。(後略)

   
1961年「こじはん」

鈴木賢二研究会:「研究会の目的」(2000年)より


鈴木賢二はその芸術を通じて、自分と社会をギリギリ摺りあわせてきた人といえようか。
そうした賢二に内在した鈍痛は膨大な作品群となり、その作品からは昭和史の優れた観察者としての姿が浮かび上がってくる。

賢二は昭和初期に雑誌『戦旗』や『ナップ』や『アトリエ』などに掲載された芸術論文、政治漫画、表紙絵、挿絵、
カットなど新興美術運動のあらゆるジャンルでリーダーシップを発揮した。
また栃木に帰省した1933年以降は、漫画雑誌『東京パック』に田原満というペンネームで「彗星のようにデビュー」し、
社会的には新進彫刻家として地歩を固めた。
やがて、彫刻団体「第三部会」の有力メンバーとなり、中央紙、地方紙にたびたび顔をだす名士となった。
同時に賢二はそれに飽きたらずひそかに戦後をにらんでいたのではないか。それは農民版画家、飯野農夫也、
切り絵作家・滝平二郎らとともに農民や勤労者のための芸術の可能性を追求し、
民話、わらべうたなどを収集する一方、戦後の活動の中心となる版画の研究に着手していた。
鈴木賢二は、民衆版画としてのメデイア性に着目し、それが平和運動家としての使命と合致するという信念で
戦後の20年余を駆け抜けた。
その代表作『世界を平和に』(1958年)は世界的な評価を受けた。
しかし、その後も“民衆版画”を芸術に高めるために苦悩した。芸術を「政治の僕」にとどまらせることを恐れた。
政治と芸術にどう折り合いをつけようとしたのか。
私たちに残されている膨大な作品が語るものを聞き分けていくことが、わたしたち研究会の使命である。

    

鈴木賢二 1977年             『花』 1961年   93.5x102.5
                                               
1906年 栃木県栃木市に生                
1925年 東京美術学校入学 (彫塑科)
1929年 軍事教練反対のビラを学内でまき、退学。
日本プロレタリア美術運動に入る。
1946年 版画運動協会を結成。
1954~58年 栃木県益子町に住み、陶芸・版画制作。   
1961~64年 東京・雑司が谷のアトリエにて制作。
1964年 脳梗塞に倒れ、栃木に帰住。左手で版画制作。     
1987年 栃木市の自宅にて逝去、81歳。
1997年 栃木市制60周年記念『鈴木賢二展』開催。
 同年  鈴木賢二研究会、発足。
2000年 栃木県立美術館にて賢二作品を中心とした
『北関東の版画運動展』の開催
2007年 とちぎ蔵の街美術館にて 
生誕100年記念
『鈴木賢二 まなざしの先に』展 開催
2018年 栃木県立美術館にて
『没後30年 鈴木賢二展』 開催  
   

鈴木賢二の本

『物売りの声がきこえる 記憶の風景
創風社刊

   
鈴木解子・文      1800円(税別)


鈴木賢二作品集 
時代を彫刻む

ときをきざむ     1800円

栃木県立美術館
 
鈴木賢二展  図録 2000円

    
彫刻家・鈴木 徹 について

賢二の芸術性を受け継ぎつつ、
人間愛に満ちた独自の彫刻の世界を切り開いた鈴木徹


美術における文学性――鈴木徹の彫刻 
                             元・栃木県立美術館特別研究員 竹山博彦
                      1999年「鈴木徹遺作展」リーフレットより
                 

(前略)
鈴木徹の終生のテーマになった「馬と娘の恋の物語」は、(岩手県)遠野地方の
オシラさま伝説によっている。馬と暮らすうちに、恋に落ちる娘と、その仲を割くため馬を殺して
首を切り落とす父親、そして馬と共に昇天する娘という一連のストーリーを、連作彫刻という
方法で制作する。60年代のアフリカ諸国独立の時代に、そこに暮らす民衆に取材した作品や、
独立運動家の肖像をはじめとして、大作の女性像の作品によって培った具象彫刻の実力は、
このシリーズによって文学的な表現から、文学的形式へと変化する。
美術と文学の鑑賞形態の違い、イメージの実態である美術と、実体のないイメージによる
文学を、統合しようと試みた鈴木徹の作品は、彫刻という形式を越えて、私たちに美術のもつ
可能性の大きさを訴えていると言えるだろ。

 


鈴木徹 鈴木 徹 
 
鈴木 徹作
 旧栃木市平和モニュメント「碑」
          

1935年 賢二の長男として栃木市に生まれる
1953年 県立栃木高校卒業
1961年 自由美術協会会員
1973年 「馬と娘の恋物語」の連作を始める
1975年 自由美術協会、平和賞受賞
1994年 千葉県松戸市の自宅にて逝去、59歳
1996年 栃木市に平和モニュメント設置
1999年 栃木市にて「鈴木徹彫刻展開催」 

  馬と娘・ブロンズ 

        
シリーズ 「馬と娘の恋の物語」より


                

父と兄のいた風景        
             鈴木解子
                                              
一冊の古いアルバムを開いた。見返しには、1963年10月、ジャパンプレス写真部の撮影と記されている。
東京・雑司ヶ谷の異人化館、父と兄のアトリエ。そこに生活し、制作する父の姿を追う。
ともにいた兄(鈴木徹)の姿もそこここに見える。父57歳、兄は28歳。
版木に向かう父の前のテーブルはそのまま食卓となり、その前方の、黒人像の乗る兄の彫刻台の傍らには、
飯炊き釜ののった石油コンロがある。粘土
や石膏が飛び散り、木くずが舞うそこは男二人の寝室でもあった。

 私は高校生、大学受験のためのゼミ受講と称して、この異人館の父の下に遊ぶことを喜んだ。
私のごく幼いころは、父は、自宅のアトリエで塑像に向き合っていた。だから、アトリエの汚さを私は平気だった。
友人を異人館に連れて行ったことがあった。友人は、その雑然とした有様に唖然としていたが、
当時の私にはそうした彼女の状態が理解できずにいた。いま、写真を見ながら、改めて友人の驚きが分かってくる。

 1960年代はじめ、父は自由労働者(失業対策労働者)の群れの中にいた。
父は彼らの労働を生活を、歴史を見ていた。職安に行き、仕事に現場に出向き、スケッチし、
茶を飲みながらおしゃべりし、版木に彫りこんでいった。
 彼らの集会所の前にロープを張り、刷り上った版画をぶら下げて路上展覧会を開いた。
「これ、私だよ!」「この野郎がさ!」・・・深いしわの刻まれた、日焼けした顔のおじちゃん、
おばちゃんたちは父の作品の中に自分と思しき人物を見つけて喜んでいた。路上展覧会場は賑やかだった。
  国が失業対策事業打ち切りの方針を出したとき、「俺たちを見殺しにするきかよ!」と叫んだ労働者、
父は彼らの姿の向こうになにを見、なにを感じたのだろうか。
 「明日はない、といった感じで、賢二先生は制作し続けていた」と、
当時異人館の父のアトリエの隣に住んでいた滝平二郎先生はおっしゃった。
1年後の10月、脳梗塞で倒れるまでのあいだの、父の制作の量はすさまじいほどのものがある。
人々の叫びは、父の魂の叫びとなって膨大な量の版画に生きたようだ。

 もう一度アルバムに戻ろう。若くつややかに美しい兄。二十歳のときに彫刻がやりたくて栃木を出た。
その二十代はよくアフリカの黒人をつくっていた。「俺の師は、おやじじゃない」と言いながら
父の芸術性と精神性を学んでいたのは兄だった。写真の片すみに見える黒人像は静かに悲しい。
しかしその粘土の塊に命の讃歌を私は感じる。
 益子焼の茶碗で飯を食う二人、父と息子の、その目の語らいは楽しそうだ。
こういう日々のあった二人に私は軽い嫉妬を覚える。
 数年後、兄は銃殺刑となった北ベトナムの青年の像を発表する。
両手を縛られ、目隠しされた青年の見るものは・・・。
 父が倒れたと同じ年齢で、兄は病魔に倒れた。その最後の作品は、やせ細ったアフリカの女。

 賢二、徹、ふたりの男は人の命の尊厳を見つめ続けた。
この二人の魂に触れたいと手をのばしつつ、空をつかむばかりの私はあがいている。 
 (1995年栃木県立美術館会報所収 に補筆  
   鈴木賢二・四女)