松本楼について
開化の時代、松本楼と日比谷公園の歴史始まる
明治36年6月、本多博士の献身の業により、我が国の洋式公園第1号として日比谷公園が誕生しました。それと同時にオープンした松本楼は当時マンサード屋根の3階建てで、洒落たお店は大評判。 モボやモガの間では松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲むのがハイカラな習慣となりました。 高村光太郎の”千恵子抄”にも光太郎と千恵子が松本楼でアイスクリームを食べた詩が載っています。 その他、小説やエッセイ、”千恵子抄”舞台の1シーンとして松本楼が登場いたします。
激動の近代史の舞台となった松本楼
明治37年、日比谷公園は日露戦争大祝捷会が行われるほど主要な政治的舞台となります。 有名な日比谷焼き打ち事件も起こり、激動の時代は確実に日比谷公園にも押し寄せていました。 政治集会に集った市民に対し、松本楼のバルコニーから憲政擁護の演説も行われました。
孫文と梅屋庄吉
松本楼にいらしたいろいろなお客様の中でもめずらしいお客様が中国革命の志士孫文でした。 当社副社長ならびに社長夫人の祖父にあたる梅屋庄吉は孫文にあらゆる援助を惜しまなかった一日本人として有名です。 梅屋邸で宋慶齢が弾いていたピアノが当館ロビーにおいてあります。これは、国産(ヤマハ)ピアノ第1号で、 現存する2台のうちの1台です。
松本楼炎上と沖縄デーのデモ
昭和46年秋、沖縄返還協定反対の過激派学生グループにより、火炎瓶を投げられ、当店は全焼しました。 関東大震災以来、2度目の炎上事件でした。
再建と10円カレーチャリティーセール
炎上から2年。全国からの温かい励ましに支えられて、昭和48年9月25日に再オープンすることができました。 その時の感謝の心をこめた記念行事として始まったのが10円カレーチャリティーセールです。