W 町教育研究所調査研究部会県外研修(平成14年1月15日)
同和教育から人権教育へ大きく転換しようとするこの時期において、同和問題の
原点ともいえる、浅草弾左衛門ゆかりの地を中心とした研修を行うことは、重要な
意味を持つのではないだろうか。
今回の研修を通して、そのような感想を持つに至った。メンバーは各校同和教育
主任、同推教員、町教委学校教育課の市村指導主事ら、町教育研究所調査研究部会
に、学校教育課、人権推進課の職員4名、さらに部落解放同盟栃木県連の河田委員
長と戸田氏が参加した。今回の研修先での案内役、藤沢靖介氏は浅草弾左衛門の研
究の第一人者として知られる。東日本部落解放研究所の方ということで、今回の研
修の実施に当たっては、解放同盟の栃木県連を通じてお願いしてきた経緯がある。
最初に浅草の東京都人権啓発センターで、藤沢氏から、弾左衛門による関八州の
被差別民支配の仕組みについて説明をいただいた。ここでわかったことは次のよう
なことである。
・被差別部落の人々は各村を本村とする枝村に位置して、本村からの支配を受け
るとともに、弾左衛門を頂点とする被差別部落のいわばネットワークからの支
配も受けるという、二重支 配の構造の中にあった。
・被差別民は、革細工などの中世以来の伝統的な職業に従事するとともに、支配
者の命によって本村の治安維持などの「役」を次第に担うようになってきたが
その時期については、17世紀の後半〜18世紀の初めにかけてで、江戸幕府成立
当初からとは考えにくい。
・したがって中世末〜近世初期にかけて、戦国大名の意図や地域の経済状況など
から、社会的に賤視される人々の集団が、すでに各地に成立していたと考えら
れる。
・弾左衛門についても、このような支配体制が確立していく過程で、関東一円や
遠く長野・大阪の小頭たちと縁戚関係を持つなどして支配力を強め、様々な職
分がはっきりしてきたものと考えられる。
このような基礎知識をもとに、現地研修に出発した。研修地は浅草北部一帯の弾
左衛門の屋敷地内、いわゆる「新町(=しんちょう)」とよばれたところと、南千
住の刑場跡地の大きく二カ所である。
藤沢さんの案内によって「新町」の範囲と推定されるところを、北から南に向か
って東端を歩いた。途中、白山神社(=はくさんじんじゃ、弾左衛門や被差別部落
の人々が信仰した神社)との合祀問題で、明治中期に大問題に揺れた今戸神社(現
在も白山神社が合祀されているという明確な説明はない)を見学する。さらに矢野
(弾左衛門)家の菩提寺である、本龍寺などを見学した。2基あるその墓石には、
歴代の弾左衛門の銘が刻まれていた。
ここからさらに南に下ると、山谷堀に出る。現在は公園として整備されている。
かつてはここが「新町」の南の縁に当たるところであった。この山谷堀の西南の一角
に、現在は都立台東商業高校が建つ。このあたりに、かつて江戸時代には弾左衛門
の屋敷をはじめとして、役所、裁判所、公事宿(=くじやど、訴訟などで上京して
きた人々の宿泊所)、革問屋などがあったという。
往時の面影を残すものはほとんどないが、藤沢さんの懇切丁寧な説明で、参加者
の眼前にはかつてのこの地域の様子が生き生きとよみがえってくるようであった。
その後バスで南千住へ移動、江戸時代に処刑場であった小塚原の回向院・延命寺
を見学した。刑吏の仕事もまた、江戸時代の被差別身分の人々に課せられた役の一
つである。回向院には、小塚原で処刑された人々の霊が眠る。ねずみ小僧次郎吉や
幕末の勤王の志士たちの墓も見られた。
ここにはまた、「解体新書」の翻訳によって我が国の洋学者の先駆けとなった、
前野良沢、杉田玄白らの業績をたたえるレリーフが設置されている。内容はその玄
白や良沢が、1771年に刑死した人の腑分け(=ふわけ、人体の解剖)を行ったとい
うものである。しかし彼らの業績の陰に隠れているものの、実際には腑分けを行っ
たのは被差別身分の老人の手によるものという。
藤沢氏は、弾左衛門をはじめとして被差別民の果たした役割に言及しながら差別
が日本社会の歩みの中でできてきて、それを制度が確立したというとらえ方をされ
ていた。また、明治4年の身分解放令が、単にお上からの下されものであるとする
見方を廃し、弾左衛門らの幕末から続く「醜名除去」(=身分引き上げ)のための
闘いの成果であるとするとらえ方を強調しておられた。この点は非常に印象に残っ
た。
午後からは東墨田の木下川(=きねがわ)の革工場を見学した。木下川は明治に
なってから強制移転によって形成された「部落」である。明治以降、弾左衛門の屋
敷地一帯を中心に、革なめしの工場ができるが、東京府知事や警視庁からの「悪臭
はなはだしい」との通達によって、明治35年までに立ち退き・移転を余儀なくされ
た。その結果ここ東墨田の木下川と、荒川の三河島に新たに被差別部落が形成され
て、今日に至ったものである。
豚の皮革の加工については、実に日本のシェアの80%を占めるとのことである。
しかし最近では安価な外国製品との競合、長引く不況の影響、排水・臭気対策など
の環境問題など、課題は山積しているとのことである。
こうした説明を受けた後、地域改善の様子を見学し、皮革工場も訪れた。確かに
ある種独特のにおいは感じられる。また皮の表面の毛を除去したり、なめらかにす
るために使われたらしい薬品の廃液が、絶えず工場内の排水溝を流れている。しか
しものを生産する工場ならどこにでもありがちな風景である。それほど気になるも
のでもないと思われた。やはり生き物を扱う点での差別なのかと感じられた次第で
ある。
木下川では、ピッグレザー団という組織をつくり、現在豚皮の教材化を図ってい
るところである。以下に住所とホームページアドレスを掲載しておく。
住所:東京都墨田区東墨田3―12―1
電話:03―3613―7130
ホームページアドレス:http://www2.ocn.ne.jp/~plether
今回の研修は、歴史的なものと、現代の問題との両面からであった。しかし両方
の研修をしてみて共通に感じるのは、多数者による無責任な偏見や差別の積み重ね
に苦しみながらも、それに対して闘ってきた人々の姿である。今日の学校教育が抱
えるさまざまな問題の解決に、このような人権の視点をぜひ生かしていきたい。そ
の点で、今回の研修を歴史的・地域的な興味関心だけに終わらせたくはないもので
ある。 |