トシ子ちゃん
                                北武井  吉田 孝子  「ガタンと電車が動き出しました。浅草の駅に見送りに来てくれていたトシ子ちゃんが、 『タカちゃーん』と大きな声で呼びかけ、私が『トシ子ちゃん、さようなら』と、窓から手 を振って別れました。」  これは、私の小学校5年生の時の作文の書き出しです。この作文のとおり、これが親友の トシ子ちゃんと交した、最後の言葉となろうとは夢にも思いませんでした。  昭和19年。東京は空襲が激しくなって、小学生は地方に疎開することとなり、田舎に親 戚のある者は縁故疎開、その他の大多数の生徒は地方のお寺などに先生と一緒に学童疎開さ せられたのです。  私は、叔母の家の栃木市大宮へ、トシ子ちゃんは千葉県のお寺へと別れました。  昭和20年3月9日。千葉県に疎開した6年生の同級生達は、小学校を卒業したため、疎 開から外されて、本所区の実家に戻されました。トシ子ちゃんはすぐ、タカちゃんに会いた いと、我が家を訪ねてくれたのです。家に残っていた父が、「タカ子は栃木からまだ帰って こないんだよ。」と言うと、淋しそうに帰って行ったといいます。  何と、あの東京大空襲は、その晩の未明からだったのです。早乙女勝元さんの「東京大空 襲」によれば、10日零時15分から2時32分までの2時間22分の間に飛来した爆撃機 B29は、334機。焼夷弾の総重量2000トンで、1平方メートル当たり3発が投下さ れた。そのため、死者88793名、傷者40918名、焼失家屋27万戸という地獄図さ ながらの状況となったのです。  トシ子ちゃんは、やっと我が家にやってきて、家族と一夜を過ごした未明に、お母さん達 と一緒に悪魔の炎に焼かれて命を失ったのです。  小さな幸せを願って、仲睦まじく、物や食料はなくとも、お互いにつつましくいたわりあ って生活してきた小市民に、何の罪があったでしょう。  この夜明け、私は、はるか疎開先の栃木の地から、真っ赤に燃える東京の空を眺め、涙を 流しつつ立ちつくしていたことを忘れません。  毎年3月10日には、トシ子ちゃんの霊に手を合わせて、冥福を祈り続けております。  私の疎開先は大きな農家で、食べ物には不自由しませんでしたが、叔母は、まだこの家の 嫁で、姑やまわりの人達に気兼ねもあってか、私には常に厳しく当たりました。薪作り・ご 飯炊き・風呂汲み・芯縄ない・畑や田の除草といろいろ手伝わされました。時には、子供心 にも、厳しく冷たい人と恨んだこともありましたが、後に私が大平町に嫁ぐ時、色々の支度 をしてくれました。疎開先での農家の仕事を身につけたこともあって、おかげで皆様とのお 付き合いの中で、すっかり大平町にとけこみ、少しでも人様のお役に立てればと励んでいる 昨今です。  あれから50余年。  今は飽食の時代といわれ、何不自由なく生活しており、あの戦争の惨禍も風化しつつあり ます。  時の流れと共に、全ての記憶も色あせていくのは仕方のないことですが、決して「この道 は、いつか来た道」にならないよう、改めてあの戦争の犠牲がいかに大きかったかを思い出 して、どんなことがあっても、孫たちにあの悲惨さを味わわせてはならないと心に誓う次第 です。