鉛筆削り
                                  新  伊賀野 哲雄 「ゆいちゃんは、鉛筆、削れるかな?」 五つになる孫の女の子に聞いてみた。 「うん、削れるよ。」 「ほう、どうやって、削るの?」 孫は私の手を引き、弾むような足どりで『ばあば』の部屋に入り、机の上を指差した。 「ここに、いれればいいんだよ。」  こことは、勿論、鉛筆削り器のことだ。まだ幼く、鉛筆削り器という名詞を知らないので 「ここ」で済まされた。 「あのね、『じいじ』が小さい時はね、鉛筆削りなんてなかったから、ナイフで自分で削っ たんだよ。」 「ふうん。」  孫は、鉛筆削り器のない時代があったことを理解できず、いぶかしそうな表情をしたまま そう答えた。  最近は、鉛筆を削れない子が多いと聞く。試みに、ナイフと鉛筆を持たせて鉛筆を削らせ た所、怪我人が続出、削った鉛筆の仕上がりも、凸凹だらけで最悪だったという。  もっとも、この世代は、生まれた時、既に高性能な鉛筆削り器が出回っていて、鉛筆を穴 の中に差し込むだけで、容易に削れてしまう時代だったのだ。鉛筆を中に入れるという知恵 さえあれば、誰でも鉛筆は簡単に削れるし、たとえ、鉛筆が何十本あっても、同じ動作の繰 り返しで、それを短時間で削り上げてしまう。仕上がりもスマートだ。  遠い昔となった私達の時代とくらべ、便利な世の中になったものだと改めて感心させられ た。同時にこの便利な時代に生きて、なんとこの子達は幸福なのだろうかと思った。ここま で考えて、私は「待てよ?」と思った。心の奥の方で、その思いを打ち消す微かな「揺らぎ」 が感じられたからだ。  これはなんだろうと思った。そして、思わず慄然とした。  この子達は、確かに便利な時代を、今、生きている。コンピュータ、ロケット、テレビ、 電話、車、新幹線、飛行機、ロボット等々、溢れるばかりの文明の利器の中にあって、この 子達の生活は、どこから見ても豊かで暮らしやすくなっているが、本当に彼等は幸せなのだ ろうかと思った。  冒頭の鉛筆削りに話を戻してみよう。私は、鉛筆を削る時、こんなことを考える。 「どこから刃を当てようか。どの角度で削ろうか。芯の長さはどの位にしようか。」  削り始めると、又、こんなことを考える。 「角の部分の削り方が気に入らないな。ナイフの切れ味もよくないな。ナイフの力の入れ方 もうまくないな。」  つまり、鉛筆を削りあげるまで、常にこんなことを考えながら削っているのだ。そこには 計画があり、工夫があり、反省があり、忍耐があり、そして、なによりも削り上げた喜びが ある。が、この子達には、この一番大切な部分が完全に欠落しているのだ。世の便利さがそ れ以上のことを要求していないからだが、ただ「入れる」「出す」だけのことしかしていな い。  これでは、この子達の「考える力」「耐える力」「創るよろこび」等人間にとって一番大 切な心が育つ訳がない。