心に太陽をもて!(体験と教科書から学んだこと)
     西野田  佐山 幸子  私が小学校に入学したのは、昭和20年の4月でした。スモックに大きな名札をつ け、モンペにズック靴をはき、防災頭巾を肩にかけて登校しました。戦争中のことで アメリカの飛行機B29が、栃木県の上空にも来て爆撃していました。また別の飛行 機は、低空飛行をして銃撃するので、家や木の陰にかくれながら通学しました。田畑 で仕事をしている人たちや、校庭にいる児童生徒が、アメリカの戦闘機に機銃掃射さ れ、たくさんの死者がでたこともありました。私も、家族と一緒に追いまわされ銃撃 されて、桑畑や木の繁みに逃げ込んだことがありました。 そんなある日、皆が大豆畑の木かげに逃げ込んだ後で、休みで畑仕事をしていた父 がひとり残ってしまったことがありました。かくれる場所のない畑の中です。逃げま わる父をめがけて銃撃がつづき、土ぼこりの中に死んだふりをして父が倒れるまで続 いた光景は、恐ろしいものでした。 その年の8月15日、日本がアメリカ連合軍に無条件降伏をした、と聞きましたが 1年生の私にはどういうことかわかりませんでした。ただ戦争に負けて、大声で泣い ていたことだけが記憶に残っています。 それからが大変でした。教科書は墨で全部ぬりつぶされ、教科書のない授業が続き ました。ノミやシラミを退治するということで、DDTという白い粉の殺虫剤を頭か ら浴びたこともありました。私の家は、日光裏街道に面してありましたので、日光見 学に行くアメリカ兵のジープがたくさん通るのを見ました。時折、飲み水をもらいに ジープが立ち寄ると、子どもたちが、ガムやチョコレートをもらいに集まるようにな ったのです。何もかも新しく変わっていく生活の中で、子どもたちは、いちばん早く 新しいものに馴れていきました。 私が新しい教科書を手にしたのは、4年生になってからだったような気がします。 その教科書の中で、「心に太陽をもて!くちびるには歌を!」という文章に出会いま した。 何回も読み返したわりには、作者も内容もよく覚えていませんが、嵐にあって難破 した船の乗客が、波間に浮かぶ板につかまって救助されるまでの話でした。うねる波 にゆさぶられ、まっ暗な嵐の夜の海の中に、恐怖と寒さと疲れで力つき、沈んでいっ た人たちもいました。はなればなれになっていく板につかまっていた人たちは、声を かけ合い、励まし合っていましたが、いつしか歌い始め、それが救助されるまで続い たのです。希望と勇気という心の太陽は、夜の暗い波間を照らし合い、恐怖や困難を 乗り越えて生きる力を与え、歌は人々の心を結び合っていました。 この話の中から、人間は、いのちを大切にして信じ合い、支え合い、生きること、 生きる力を身につけることを学んだと思っています。戦争という恐ろしい体験と、1 80度変ってしまった生活の中で、飢えをしのぎ、誰もが必死で生きていました。そ れで共感し、感動したのかもしれません。「心に太陽をもて!くちびるには歌を!」 の言葉は、私の心の支えになっていました。 それからです。無口で人のあとについていくだけだった私は変っていきました。優 等生でもないのに会場を交渉して、ゲームをしたり、紙芝居を作って小さい子どもた ちに見せたりと、今の子ども会のような活動を始めました。冬の夜は、防火の声かけ 運動をしてまわりましたが、凍りつく寒さの中で声をあげて歩くのは大変でした。 中学生になると、頼まれると断れない私の性格を利用したのでしょう。いやなこと はほとんど私の当番になりました。教室やトイレの掃除は、誰もいなくなっても続け た日もありました。クラスの男子生徒全員が掃除をサボった時には、さすがの私も怒 り、男子生徒を教室に入れなかったこともありました。担任の先生には叱られました が、その後は、男子生徒は誰も掃除をいやがる人はいませんでした。 ずいぶんとメチャクチャなこともありますが、何事にも体当り主義で、馬鹿と言わ れてもめげることもなく、62歳の今日まで生きてきました。いのちを落としかけた り、裏切られたり、絶体絶命のピンチになるまでおとしいれられたりしましたが、い つものんきな顔をしています。大失敗をしたり、ひとさまのことで我を忘れて走り回 ったりしています。いつになっても優等生にはなれない私ですが、大勢の仲間や友人 と共に、社会参加し活動し、ボランティア活動をしています。 みなさんにお会いするときは、のん気な顔で、必ずあいさつすると思います。誰も があいさつを交わせる社会にしませんか。