表紙 「今こそ、仏教の出番」
 書 名 今こそ、仏教の出番
 出版社 転法舎
 発行年 平成12年12月初版発行
 大きさ 菊判、294ページ
 価 格 3,390円(税別)
 目 次 第1章 ナゼ宗教は必要なのか?
第2章 私たちに語りかける仏教とは
第3章 新しい世紀の私たちの生き方とは
第4章 国際化時代の仏教とは
第5章 過去十年間の世界仏教界の動向
第6章 二十一世紀の仏教はどうなるか
【主 な 内 容】
 二十一世紀を迎えるにあたり、わが国は今、政官財界をはじめ教育界、医療界、宗教界、および社会全体が一大改革を迫られています。(中略)しかしながら、その当享者は物事の本質や原因を徹底的に追求して抜本的な解決に努力するのではなく、いつも責任を他に転嫁し、問題を先送りして逃げ回り、時の経つのを待つといった消極的な解決策しか頭にないようです。これではいつまでたっても世の中が改善されるわけがありません。
 私たちの人生の根幹をなすべき宗教も御多分にもれず、過去のいまわしい歴史のしがらみから、自分の信念の中核に据えることをしないで無関心を装うか、義理で宗教憤習に従うか、危機に直面したときだけ「藁をもつかむ思い」で神頼みするしか選択の余地がないようです。(中略)
そして宗教にとってかわるものとして近代的な制度や科学知識を採り入れ、一時期、それらによって私たちの生活は確かに便利で快適になり、物質的に豊かになって、この世に理想郷が到来するかのような錯覚を起こさせました。が、その夢は相次ぐ政官財界人の汚職事件や廃棄物の公害や原子力の大気汚染などによって無残にも打ち破られました。すなわち、それらは扱う人次第によってかえって悪魔の武器となり、人々をしあわせにするどころか、かえって苦しませ、早死にさせる手段にさえなることを身をもって知らされました。文明の利器は私たちの腹ごしらえの足しにはなっても心の足しにはならないのです。
 ここに至って、私たちは自分以外には誰にも頼れないような孤立した状況に置かれ、その孤独感に耐えきれず、お互いが自分本位に食べたり飲んだり歌ったり、旅行やゴルフやスボーツ観戦や携帯電話やパソコンで憂さを紛らわしたりしているようです。しかしながら、はたしてそれで、心の憂さが本当に癒され、充実した人生を送っていると自信を持って公言できるでしょうか。特に、今日のように物質的に恵まれていると、とかく精神的な危機感を忘れ、ただ毎日、食べたい放題、言いたい放題、したい放題のことをして楽しめれば事足れりと考え勝ちになります。それで周囲や社会がどうなろうとかまわず「後は野となれ山となれ」で、この世を去るにはあまりにも腑甲斐なく、無責任のそしりを免れません。
 では、一体どうしたらよいか、と思いを巡らしたときに、今まで私たちの足元に仏教というかけがいのない宝物が死蔵されていることに気づいた次第です。私たちは「仏教」というと、葬式法事や彼岸やお盆の墓参りのときにしか用がなく、僧侶のわけのわからない読経にうんざりしたり、御布施と称してお金の支出を求められる伝統的慣習くらいにしか考えられて来なかったりしたふしがあります。こうしたことにしか関心が持てないのは、一重に仏教界自身に責任があることは勿論ですが、食わず嫌いで、その何たるかを知る機会を逸した人たちにも責任の一端があるようです。中には、そんな古臭い教えや慣習を現代に持ち出すなど、時代錯誤以外の何物でもないと批判される向きもあることでしよう。
 「世はすべてこともなし」で、功なり名を遂げ、自分の周囲や家庭も円満で人生上何の問題もないと豪語し、生活に何の不自由もなく、しあわせで充実した毎日を送る人にとっては「宗教」は腹の足しになるわけがなく、必要ないのかもしれず、したがって、それを強制する気持ちはサラサラありません。しかしながら、この世の現状を憂い、人生に行き詰まったときが宗教の出番で、とりわけ混迷した社会や先行き不安な人生の一隅を照らす光としての仏教の教えを知ることは、読者諸兄姉に何か稗益するところがあるのではないかと考え、ここに私見を綴った次第です。
 はたしてどの程度、私の真意が伝わるかどうか心もとない気持ちですが、何かを感じとって頂ければ幸いです。(※本書「はしがき」より)



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