表紙あんた、自分が好きか?
 書 名 あんた、自分が好きか?
          仏教的生き方の常識
 出版社 碧天舎
 発行年 平成15年7月初版発行
 大きさ 四六判、220ページ
 価 格 1000円(税別)
 目 次 序説 なぜ今、仏教的生き方か?
第1章 自分を活かす道とは
第2章 人を活かす道とは
第3章 モノを活かす道とは
第4章 世界を活かす道とは
補選
おわりに これからの日本をどうするか

あなた、生き方に自信がありますか?
「仏教」については何も知らないけれど、生きるために必要な何かが欲しい・・・
そんなあなたのための一冊です。

【本書「まえがき」より】
 わが国に仏教が伝来して以来、千五百年の歳月が経過し、諸外国からは仏教国と見なされ、その土着化に成功したかに見えますが、はたしてほんとうに根づいているのでしょうか。たしかに日本の各仏教宗派・寺院は今日、戦前にもまして伽藍・堂宇の復興が成り、国民の大多数は仏式の葬祭慣習に従っていますが、どれだけの人が実際に仏教徒として自覚し、仏教的生き方をしているのかどうか疑問視する向きもあるようです。と言うのは、僧俗おしなべて、仏教関係者はとかく既成の檀家制度におもねって他に伝道する意欲に欠け、自らの依って立つ宗教を単なる習俗として受け止めているように見受けられるからです。もしこれが事実とすれば、どうして私たちは仏教徒と称し、日本は仏教国と言えるのでしょうか。もし仏教が、私たちのこころの拠り所としての機能を失い、文化遺産としての価値しかないとすれば、早晩、それは過去の残渣として見捨てられる運命にあると言えるでしょう。
 かつて私は宗教(仏教)に対する日本人の無知や無関心ぶりに危機感を抱き、どうしたならばこの現状を変革できるかに思いを巡らし、『日本仏教改革論」(雄山閣)を上梓させて頂いたことがあります。ところがそれから十数年経過したにもかかわらず、旧態依然としている現状を垣間見て、正直言って、ガッカリしました。おそらくこのまま推移しますと、ちょうどわか国の政治が国民の民度以上に出ないように、早晩、宗教(仏教)は日本の政治と同様、危機的状況に陥り、日本人は信念を持たないエコノミックアニマルで、信用がおけない国民だと断罪されてしまうことでしょう。
 おそらく国民全体が真剣になって宗教を求めるときは、かつての戦災や関東、阪神大震災のような天災地変などによって家や財産か失われ、生きる希望が持てなくなるような切羽詰まった状況に直面したときでしょう。そのくらい外圧が加わらないと、改革に向けて立ち上がれないとすれば、何と日本人はあなたまかせの、だらしない存在だということになりかねません。
 かつて江戸時代の剣客・宮本武蔵は「仏神ば貴し、されど仏神をたのまず」と語ったことがあります。最近、宗教学者の山折哲雄氏(国際日本文化研究センター所長)も、一九九五年に起きた阪神大震災とオウム真理教事件を契機に日本の宗教は終焉を迎えたと述べています。もし宗教や他人をあてにできないとすれぱ、後に残るのは自分自身ということになりますが、はたしてそれは頼れる存在でしょうか。
 たしかに既成の宗教(特に仏教)には世間に通用しない自閉的な言葉によって彩られ、「わが仏のみ尊し」といった独善的なものがあることは事実ですが、それらを抜きにして、私たちのこころの拠り所となるべき万人に開かれた教えが、私は今もって仏教に秘蔵されていると確信しています。それを感得するために、日頃、「私たちが仏教徒であるからには、仏教とはどんな教えであるか、それに帰依する自分は何に対して何を祈り、それによって自分がどんな仏教的生き方をすべきか」を知るべく自問自答してきました。そうでなけれぱ、単なる名目的仏教徒にすぎなくなってしまうからです。そこで本書では、仏教的生き方をする実質的仏教徒を「仏教者」と呼びたいと思います。
 ここで言う「仏教的生き方」とは何も改まったことをするのではなく、誰もがこうした生き方をしたならば、なるべく危険に遇わずに安全に生きられるのではないかという、まともな生き方を指して言う言葉です。それはちょうど自動車を運転するドライバーに例えることができようかと思います。もちろん自動車は目的地に向かって道路の左側を適度の速度で走れば到着しますが、いくら自分が運転に自信を持ち注意しているつもりでも、ときには道からはずれて障害物にぶつかったり、相手にぶつかったり、相手にぶつけられることがありますから、安全に目的地に着けるという確約はありませんが、しかしまず、自分が安全運転をする自信を持ち、実際にそうした運転をする必要があります。
 運転する車はアクセルを踏むことによって走り、ブレーキを踏むことによって停まるという単純な運動の繰り返しですが、もし、スピードを出しすぎると暴走して衝突したり、パトカーに追われて速度違反で罰金のお目玉を貰ったりしますし、逆にブレーキを踏んでばかりいると車は走らず、急ブレーキを踏むと後続の車に追突される危険があります。どちらにしても「パパやめて、低速、わき見、飛ばしすぎ」の標語のように、走行にば絶えず左右前後を見渡しつつ安全を確認し、ジャイロスコープの「やじろべい」のように軌道調整をしながら、適正な速度で目的地に向かって走らせることが肝要でしょう。
 仏教的生き方とは、自身という名の車を使って自分の人生という道なき道を走らせるようなもので、毎日の自分の行住座臥の生活の中で、気負い込んで暴走すると、自らの心身をこわし、人やモノに当たってロクな結果を生まないようです。そうかといって、ただブレーキを踏むばかりで何もせず安閑としていたなら、やはり何の成果も上げられないことでしょう。そこでは適正な運転(生き方)をして初めて目的地に向かって安全に走行することができるのだと思います。こうした生き方は、自分のやりたいことを貫く勇気や、行動力というエネルギーを燃焼させることが必要であると同様に、やるまいと決めたことを守るための、強い意思と忍耐力という同様のエネルギーが要ります。この自己主張と自己規制とのバランスを絶えずとりながら生きてゆくというのが「仏教的生き方」で、そこには「中道」の姿勢が求められるのではないでしょうか。「そんなことば馬鹿馬鹿しい、ほっといてくれ。自分の好き勝手に車を走らせ、生きるほうがスリルがあってカッコいい」と豪語される方には「どうぞお好きなように」と言うほかありません。ただしそれによって事故や事件を引き起こし、自分自身が傷つき、相手に迷惑をかけてえらい賠償のツケが回ってベソをかいても、私の知ったことではありません。それを称して仏教では「自業自得」と言います。
 その仏教者となるべき基礎づくりとして、今まで私は、開祖・釈尊以来の仏教のこころ、歩み、かたちを全体的にとらえる知識を身につけるために、及ばずながら、『お経のわかる本』(広済堂出版)、『仏教の常識がわかる小事典』(PHP研究所)、『日本の仏様がわかる本』(日本文芸社)の三部作を上梓してきました。今回はそれを土台にして、仏教を具体的に自分の人生に活かすために、「仏教者とはこのように生き、自分自身を変えていかなければならないのではないか」と考え、ここにささやかながら、自ら実行すべき「仏教的生き方」の一端を発表させて頂きました。
 こうした出版物を通しての私の提言が、読者諸兄姉の今後の生き方に必要且つ妥当なものであるかどうか心もとない次第ですが、いささかでもご参考になれば幸いです。



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