表紙今、私たちは何を知るべきか
 書 名 今、私たちは何を知るべきか
           新しい仏教のわかる本
 出版社 発行 日本図書刊行会
発売 近代文芸社
 発行年 平成15年7月初版発行
 大きさ 四六判、277ページ
 価 格 1800円(税別)
 目 次 序論 現代社会における宗教の存在価値
第1部 理論篇
 第1章 仏教は現代人を救えるか?
 第2章 自分の人生を省みる
第2部 実際篇
 第3章 自分の人生を変える
 第4章 新しい仏教的生き方とは
 第5章 世界に開かれた仏教
 第6章 究極の仏教の教えとは
あとがき
【本書「まえがき」より】
 わが国は島国で、世界の紛争地から離れているせいか、最近海外で頻発する無差別テロ事件などへの危機意識が薄く、いくらバブルが崩壊して不況だとはいえ、依然として過去の経済大国の栄華に酔いしれ、「政府が何とかしてくれるだろう」と高をくくった、甘えの姿勢をくずしていないようです。しかしながら現実は、国内的にも益々不況の度合いを加速させ、政財界の構造改革はままならず、景気は低迷し、失業者や高齢者は増え、今まで辛うじて維持されて来た秩序が崩壊するであろうことは容易に予想されます。
 おそらく今後、こうした不透明な世の中での閉塞感から、鬱積した不満のハケ口を求めて多くの人がヤケッぱちになり、争い事や凶悪犯罪が頻発し、自殺などが増加の一途を辿ることでしょう。それでは、私たちはこうした現状を、ただ手をこまねいて黙って見過ごしていてよいのでしょうか。
 終戦から五十年以上経過した今日まで、世の多くの大人たちは敗戦の後遺症から抜けきれず、戦前の権威主義への反動からか、自分の属する国家社会や家を愛したくても、下手にそうしたものを誇示すれば国粋主義者とか右翼のレッテルを貼られるのを恐れてか、自信と誇りをもって生きることを躊躇するきらいがありました。その間隙を縫って、指導者と自認するお歴々は(全員とは言いませんが)、戦後、風靡した近代主義や左翼的イデオロギーに災いされて、学歴偏重の知識や理屈を振りかざし、その閉鎖的な特権意識にあぐらをかいて好き勝手なことをして来たきらいがあります。たとえばオウム真理教のサリン事件の首謀者・麻原彰晃のような誤れる宗教心の持ち主や不祥事を犯す高級官僚など、知識ある悪魔が無知な国民大衆を欺瞞し続け、甘い汁を吸って来たようです。最近では、その実情が次々と暴露されるようになって私たちは唖然とし、彼らに対して木信感を募らせていることはご承知の通りです。そんな人達がいくら私たちの良心や意識に訴え、モラルや法律の順守を勧め、今更、とって付けたような権威や罰則を振りかざしても、聴く耳を持つはずがないでしょう。
 今日、私たちにとって最も大切なことは、お金儲けの知識や技術の習得よりも、お互いがどうしたならば相手に迷惑をかけず、傷つけ殺し合わずにいのちを大切にし、仲良く生きて行けるかということではないでしょうか。昔から「三つ子の魂百までも」と言われるように、物心のついた幼少の頃から子供に対する躾を始めなければならないにもかかわらず、残念なことに親や教師自身に、そうした教育を子供に施す自信と誇りが欠けていやしまいかと憂えています。最近ではテレビやファミコンなどを通じて青少年に流す情報の影響力が強く、マスメディアはその責任を痛感すべきでしょう。
 先頃、北朝鮮に拉致された日本人五人が帰国しましたが、彼(女)たちは拉致された二十四年間、独裁政権下で身柄を拘束され、生きるためにはその体制に順応せざるをえなかったことは理解できます。それを「洗脳」(マインド・コントロール)と言い、当人たちの主義、思想が根本的に改造されることを意味しています。かつて私たちも敗戦までは軍国主義に洗脳され、戦後でも共産主義やオウム真理教に洗脳された人がおり、この言葉はけっして耳新しいものではありません。では今日の日本人は何にも洗脳されておらず、はたしてまともな人間として生きているでしょうか。
 というのは、確かにわが国では言論や信教や行動の自由があり、誰もが法律に違反しないかぎりそれぞれ勝手な言動が許されていますが、これだけ価値観やその選択肢が錯綜し、マスメディアの流す情報や内圧的イデオロギーに翻弄されて私たちはどうも正常な考え方や健康な生き方をしていないような気がしてなりません。たとえば今日の日本人に蔓延している物質的考え方や、利己的生き方です。
 物質的生き方の最たるものは金権主義で、すべての価値をモノやお金に換算し、よく世間で「お金の切れ目が縁の切れ目」と言われるように、人間の価値を数量化し、モノやお金の多寡によって決めることです。たしかにモノやお金は文明社会で生活する上で必要な手段ですが、最近ではそれが目的化し、ただモノを溜め、金儲けをすることを生き甲斐とする人を見かけます。またモノやお金欲しさに非行や詐欺、傷害事件が多発しています。利己的生き方とはすべて自己中心に、自分だけよければ他はどうなっても構わないということです。その最たるものが延命主義で、普段は食べ放題、呑み放題の不養生をし、自己本位の好き勝手な生活をしておきながら、いざ高齢化して独居を余儀なくされる段になるとあわてふためき、介護や医療措置をあてにし、一日でも長い延命を願うことです。
 今日のような近代社会においては、通信機器や電子製品など科学文明の利器による金融経済や医療技術の発達にともない、汗水流して労働や運動をしなくても、自分は臥せったままで投機的金儲けや臓器移植などの延命措置が可能なところから、次第に各自自身の労働や運動をないがしろにするようになったようです。文明社会が発達すればするほどコンピューターなどの情報機器の導入による効率的な機械化が加速され、人間は物量化され、非人間化されて、私たちは、最早、過去原始的な生活に後戻りすることはできず、文明の利器なしでは一日たりとも快適で便利な生活ができません。このまま物質的考え方や利己的生き方を放置するならば、資源の枯渇や利己的競争、貧富の格差や高齢化が拡がり、人類全体が、制御不能に陥ることでしょう。
 私たちにとって一番大切なことはお互いの人生が「しあわせ」になることであって、モノや金銭の多寡、自分の利益や生命の長短は人生の最終目的ではないことです。それをわきまえず、他を蹴落とし恨まれても、平気で物質的、利己的生活にドップリ漬かっている日本人は主客転倒もはなはだしく、まさしく目に見えない近代文明病の内圧的イデオロギ−に洗脳されているといって過言ではないでしょう。こうした生活を送る人は、到底、人や自分もほんとうに愛することができないことを肝に銘ずべきです。したがって、北朝鮮の金正日体制に忠誠を誓う外圧的イデオロギーに洗脳されている人々と瓜二つで、けっして彼らを笑えたものではありません。
 こうした近代文明によって汚染された、血も涙もないクローンのような非人間的人間を指して、私は「人工人間」と呼んでいます。そうした人はいくら個人的にモノ持ちや金持ちになり、目分の快楽や延命のために奔走したとしても、その行く末は、いつしかツケが回って、ただ生きているだけの「植物人間」に移行し、野タレ死にするだけでしょう。すなわち、私たちはそうした「人工人間」と「植物人間」のはざまにあるのです。
 もしこのままの状態を放置しておくならば、遅かれ早かれ日本人は自他共に人間失格に陥り、お互いが傷つけ殺し合う凄惨な無法状態のアノミー(無力感)に陥ることは必定です。最近、モラルの復権が声高く叫ばれ、文部科学省や学者、評論家諸氏の提言がなされていますが、教条主義か他人事のような抽象論が大部分で「自分ならこうする」といった論調があまり見られないのが残念です。そこで、何時どんな事が起こっても不思議でない今日の現状に鑑み、目分に何ができるかを考えた挙げ句、綴ったものがこの書です。内容は便宜上、第一部を理論篇、第二部を実際篇に分けてみました。ここに取りあげたもの以外にも多々書き残したいことがありますが、紙面の関係で割愛しました。この書は私自身の体験に基づいて綴ったものですが、はたして正鵠を得、納得の行くものであるかどうかわかりませんが、いささかでも読者諸兄姉の共感が得られれば幸いです。



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