法然上人の和歌〜その5

 かりそめの色のゆかりのこひにたに あふには身をもをしみやはする
【現代かな】かりそめの色のゆかりの恋にだに 逢うには身をも惜しみやわする
【出典】『勅修御伝』三十巻
【私訳】はかなき男女の恋路にさえ、身を捨てて契ることもありましょう。ましてや仏教の御教えにお逢い出来たのであれば、身命など惜しまず、求道につとめなければなりません。
【私釈】このお歌には、「仏法に逢いては身命を捨つといへることを」という題名が付けられております。法然様は、厳正な戒をたもって生涯を送られた方であり、このような恋愛について詠ったお歌は珍しいと申しますか、意外と申しますか、その真贋を疑うことすらありましたが、その題名をいただけば、その熱い求道のお気持ちを、一般の人々にも分かりやすく比喩〜例えられたことが感じられる、有り難いお歌であります。
 私たちは、様々なご縁をいただいて、今、ここに、人として、命をいただいております。そして、この命は二度とない、限りある命であることを実感できた時、真実の人生を送りたい、真に生き甲斐のある日々を送りたいという願いが心の底から湧いて来るのです。そうした真の人生を願う心に応えますのが、宗教〜仏教の御教えなのです。お釈迦様は、『法句経』において、私たちに、次のようにお諭しくださいました。
  はげみこそ不死の道  おこたりこそは死の径(みち)なり
  いそしみ励むものは死することなく  おこたりにふける者は命ありともすでに死せるなり
ここで、“おこたり”とは、“怠”であり、文字通り、なまけたり、また自分勝手な生活をしたり、欲にとらわれた生活をするようでは、生きていても死んだも同然でありますと諭されていらっしゃるのです。
 それに対して、励むことは不死の道とおっしゃり、仏教の御教えにそって、真実に正しい道を生きていけば、たとえ死しても、真実に永遠の命を得ることになりましょうと教え諭されていらっしゃるのです。
 ここで注意したいのは、みなさんにとって、「仏法に逢いては身命を捨つ」という誓いは、決して身命をおろそかにしても良いということではなく、逆に、身命を大切にして、仏法を求道することこそ大事であると受け取るべきではないでしょうか。「仏法に逢いては身命を捨つ」の心を持たなければならないのは、私も含めた僧侶たちに向けての言葉なのではないでしょうか。
 法然様のお伝記によりますと、法然様が75歳の時、法然様のお説きになるお念仏の御教えの急激な広がりに危機感を感じていた従来の仏教界の不当な圧力により、四国へと流罪にされることが決定されました。  しかし、法然様は、この決定がなされた後も、相変らずいつもの様に、お弟子様たちに、お念仏の御教えを説かれておりました。するとお弟子様の一人が、法然様の身を案じて、「しばらく説法をおやめください」、「今は他の宗派や朝廷のご機嫌をとって、不当な罪を免れるためにも、しばらくお念仏の説法をおやめください」とお勧めした時、法然様は「われたとえ死刑に行なわるとも、この事いわずばあるべからず」とおっしゃったのであります。
 もとよりお念仏は、我ただ一人を救うものではなく、万民を救済するものであるのです。そのすべての人を救うお念仏の御教えを伝え弘めるためには、私の身命は惜しまない、捨てても良いという法然様のお気持ちが、このお話の中にあらわれております。
 この法然様のお気持ちをいただき、今この時、身命を大切にして、お念仏に、仏法の求道に、努力し、励んでいこうではありませんか。