あみた仏といふよりほかはつのくにの 難にはのこともあしかりぬへし | |
【現代かな】阿弥陀仏というより外は津の国の 難波のことも葦刈りぬべし | |
【出典】『勅修御伝』三十巻。『夫木和歌抄』三四の雑部、釈教の項目の中に。『和語燈録』六巻〜諸人伝説の詞の中に | |
【私訳】極楽浄土への往生に思いをかける者にとっては、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える以外の行は、葦を刈るという言葉のように、何事も悪しき行なのですから、ただひたすらにお念仏に励んでいきましょう。
【私釈】
このお歌は、法然上人が、後に天台座主になられた慈円大僧正に招かれ、津(摂津)の国の難波(今の大阪市)にあります四天王寺に参られた時にお詠みになったと伝えられております。 | 法然様はこの時、四天王寺の西門の近くに、四間四方の草庵を結ばれ、日想観を修し、はるかに西、難波の海原へと太陽が沈むその光景を拝せられて、そこにある西方極楽浄土へと思いをよせて、お念仏をされたのであります。そしてその庵の西の壁に御名号を書かれ、その傍らには、このお歌を書かれたとあります。このお堂こそが、現在、骨仏で大変有名な大阪“一心寺”の前身であり、このお歌は一心寺の御詠歌になっており、その壁に書かれたという直筆のお名号も現存しているそうであります。 この難波の地は、かつて水辺に生える長い草である葦(あし)が多い名所として知られており、「津の国」を次の「難波」の枕詞となし、「難波のこと」を「何事」という意味にかけ、さらに「葦」を「悪し」にかけるという、巧みな表現でつづられた味わい深いお歌の作りになっております。 さて、このお歌の主旨ですが、このお歌には「極楽往生の行業には、余の行をさしおきて、ただ本願の念仏をつとむべしということを」との題が付いております。すなわち、西方極楽浄土へと往生するための行には、お念仏以外の余行をさしおきて、ただ阿弥陀さまが本願として誓われたとお念仏の行〜「南無阿弥陀仏」と称えるべきであるという、“専修念仏一行”〜専らに念仏の一行を修す〜の意を詠ったものであります。 法然様が、この“専修念仏一行”をあきらかにされる以前は、浄土往生への行として、戒定慧の三学〜戒を保つ、禅定を修する、智慧をみがく〜、そして寺院仏閣・仏像を造立する、などが王道であり、「南無阿弥陀仏」と口に称えるお念仏など、往生できたとしても、仮のお浄土であったり、レベルの低いお浄土であったりと、価値が低い行であるとされていました。しかし、三学の厳しい修行や多額の寄進などごく一部の人しか出来ない事であり、それ以外の大多数の人々は仏の救いを受けられず、永遠に苦しむことになってしまいます。特に法然様の時代は、平安末期から鎌倉の混乱の時代であり、民衆は皆は悲惨な社会情勢に苦しんでいたのです。法然様はこの現状に疑問を持たれ、すべての人が仏の救いを受けられ、平等に救われる御教えを探して、すべてのお経を5度読み通され、ついに、善導大師さまの『観経疏』にある一心専念の文に出会われ、お念仏こそが、すべての人を救おうと志された阿弥陀さまの本願に誓われた行であることをお覚りになられたのです。 「お念仏すれば、口に「南無阿弥陀仏」とお称えすれば、どんな罪深い人でも、いまわの時、必ず阿弥陀さまが西方極楽浄土へと往生させてくださる」という法然様の御教え、浄土宗の御教えは、瞬く間に民衆はもちろん、貴族・武士などすべての人々に広がっていったのであります。 また、法然様は、お念仏は“名体不離”とおっしゃり、「南無阿弥陀仏」の中には、阿弥陀さまの智慧、慈悲などのすべての徳〜“万徳”がおさめられており、それゆえお念仏は最も勝れているともお説きになられました。そして、それまでの仏教の価値観を、「難しい=勝れている、価値が高い」から「すべての人が救われる=最も価値が高い」という視点から、大転換されたのであります。 それ故に、このお歌では、お念仏以外の行は、その功徳は比べものにならないという意味で、葦を刈るという言葉にかけて、何事も悪しき行とお詠みになられていらっしゃるのです。 極楽浄土への往生を願う私たちは、ただひたすらに阿弥陀さまの本願を信じて、「南無阿弥陀仏…」と、お念仏に励んでいきましょう。 (※ただし、現在の研究では、このお歌は、法然上人が四国に流罪になられた際、瀬戸内海の塩飽島にて、高階入道時遠の厚遇を受けられた際の御作であろうと考えられており、今後このページでも、四国流罪の道筋を辿っていきたいと考えております。) |