| あみた仏と心はにしにうつせみの もぬけはてたるこゑそすゝしき |
| 【現代かな】阿弥陀仏と心は西に空蝉の もぬけはてたる声ぞ涼しき |
| 【出典】『勅修御伝』三十巻 |
| 【私訳】お念仏をお称えすれば、すでに阿弥陀様の西方極楽浄土にいる心地となり、それはまるで蝉が殻から抜け出すようであり、お念仏の声はすがすがしく響くことでしょう |
| 【私釈】このお歌は、法然上人が、後に天台座主になられた慈円大僧正に招かれ、摂津の国の難波(今の大阪市)にあります四天王寺に参られた時にお詠みになったと伝えられており、そのご縁により四天王寺の念仏堂のご詠歌となっております。(ただし、現在、念仏堂は無く、法然様の御影は六時堂にまつられ、朱印もそこで戴きます) そして法然様のお伝記には、ここに滞在中に高野山にいらした三論宗の大徳、明遍僧都が訪ねて来られ、突然「お念仏申しても、煩悩妄念が起きて、心の散るのをいかがしたらよろしいか」と尋ねられた時、法然様は「それは私も力が及びません。しかし心は散っても、お念仏を称えれば、阿弥陀様の本願のお力によって西方極楽浄土へと往生できると心得ております。ただ詮ずるところは、おおらか(沢山)にお念仏申すことが第一の事でありましょう」とお答えになられました。そして法然様は明遍僧都が退出した後、お弟子たちに「心をしずめ、妄念をおこさずしてお念仏しようと思うのは、うまれつきの目や鼻を取り去って、生きていこうと思うようなものです。そういうことは出来ません。心が散りながらお念仏申すものが往生すればこそ、めでたき本願と申すのであります」と語られたといいます。 浄土の御教えの尊い点は、心が散り、煩悩のあるままにお念仏をお称えする者が、阿弥陀様の本願のお力によって西方極楽浄土へと往生、お救いされるところにこそあります。しかし信心が進み、法然様ほどになられるならば、心はもうすでに、阿弥陀様の西方極楽浄土にいる心地となって、煩悩や妄念など心に入り込む余地が徐々に無くなってくるものであり、そのような心地を、蝉が殻から抜け出す姿にたとえて、この和歌は詠われたものでありましょう。 今、この時期、寺の境内には、蝉の抜け殻、空蝉があちこちに見られます。私自身は凡夫の身であり、とても法然様の様なお心持ちにはなれませんが、お念仏をお称えしながら、いつの日か、この世を離れ、阿弥陀様に導かれてお浄土へ参る、その姿を心に思い描けば、きっとその声は、すがすがしいものになっていくものでありましょう。共にお念仏に励んでいきましょう。 |