往生はよにやすけれとみなひとの まことの心なくてこそせね | |
【現代かな】往生は世に易けれど皆人の 誠の心なくてこそせぬ | |
【出典】『勅修御伝』三十巻 | |
【私訳】 お浄土へと往生する事は実に易しい事だけれども、誠の心がなければ難しい事でもあります。
【私釈】この和歌は、「三心の中の至誠心の心を」と題して、詠まれております。「三心」とは、お念仏を信じお称えする人が備えなければならない三つの心、「至誠心、深心、回向発願心」であります。それぞれの語句の説明は他の機会に譲りますが、至誠心とは、真実心とも言い換えられ、その反対の言葉は「虚仮の心、偽の心、かざる心」と言える言葉であります。すなわち至誠心とは、心底からお浄土への往生を願いお念仏をお称えする真心を指した言葉で、例えば、人から良く見られたい、思われたいという名利のためにお念仏をお称えするのとは正反対の心であります。 | この和歌は、はじめに“お浄土へと往生する事は実に易しい事”であることを詠います。なぜならそれは阿弥陀様が「お念仏する者は、必ず私がお浄土へと導こう」とお約束されているからであります。これはお経様、仏様の言葉でありますから疑いようもない、真実なのであります。 しかしその一方で下の句においては、“しかし誠の心がなければ、真心から往生を願わなければ難しいことでもある”と諭されております。これは、深く人の心を見つめられた法然様だからこそのお言葉で、私たちは日々、お浄土を志してお念仏をしておりますが、時にその志を忘れ、ただ人から良く見られたい、思われたいという自分をかざる心でお念仏したりしてしまうものなのです。それを戒め、いつも真実の心で、と教え諭してくださるのが、この和歌のお心かと思います。 しかしながら、合理主義、科学万能主義の進んだ現代では、このお念仏のみ教えは、なかなか素直には信じられない事かもしれません。しかしこのみ教えはお釈迦様以来、2500年もの間、人々に信じ伝えられ、多くの方の心を救ってまいりました。確かにある面は合理的、科学的ではないかもしれません。しかし私たちが手を合わせ、お浄土を願う心、そして大切な方を亡くした時、その方の安らかなる浄土往生を念じる心は、間違いなく誠の心であり、科学とは次元の異なる、人の真実の心でありましょう。 また一方で、はじめから真実の心でお念仏を称えられる方は、なかなかそういらっしゃらないのも事実でありましょう。江戸時代の高僧“無能上人は”「ただ申せ 申すうちにはおのずから 深き誠も起こりこそすれ」と、まずはお念仏をお称えしてみましょうという事をおっしゃっておられます。また法然様も、その主著『選択本願念仏集』のはじめに、「往生の業は念仏を先と為す」とおっしゃっており、私はこの言葉を、「まずはともかくお念仏をお称えいたしましょう。そうすれば往生への道が開かれてくるのです」と受け取らせていただいております。 また法然様は、そのご遺訓『一枚起請文』の中で、「三心四修と申すことの候は、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」とおっしゃり、ご法語の中でも「南無阿弥陀仏とは別したる事には思うべからず。阿弥陀ほとけわれを助けたまえという言葉と心得て、心には阿弥陀ほとけ助けたまえと思い、口には南無阿弥陀仏と唱うるを三心具足の名号と申すなり」と諭され、ただ一筋にお浄土への往生を願い、お念仏する事が最も大切であることを明らかにされております。 今後も共にお念仏に励んで参りましょう。 |