あみた仏と十こゑとなへてまとろまむ なかきねふりになりもこそすれ |
【現代かな】阿弥陀仏と十声称えてまどろまん 永き眠りになりもこそすれ |
【出典】『勅修御伝』三十巻。『和語燈録』六巻〜諸人伝説の詞の中に |
【私訳】「南無阿弥陀仏」と十遍お称えてしてから、夜休むようにしたいものです。いつ永遠の眠りにつくとも限らないのですから。 |
【私釈】 このお歌は、その意味を思う時、2つの側面を持っているかのように感じられます。まず1つは、いつでもお念仏の中で生活いたしましょうという面。そしてもう1つは、仏教の“諸行無常”の心得をお諭しになられている面であります。 1つ目の「いつでもお念仏の中で生活いたしましょうという面」は、この和歌に、「睡眠の時、十念を称うべしといふ事を」というお言葉が題として添えられていることからも承知できます。 法然様は、行住坐臥〜坐っている時も、起きているときも、横になっている時でも、食事の時でも、仕事をしている時でも、どんな時でも、往生を願いお念仏をお称えする事が、阿弥陀様の本願に順ずる、従うことであり、必ず極楽浄土へと往生させていただける“行”〜行い、修行なのですよとお示しになられました。そして、そのように生活とお念仏とが密になれば、つねにお念仏の中に生きていることとなり、阿弥陀様のご加護を頂け、真の充実した生活を送ることができるのです。ですから、1日の終わり、夜眠る前に、お十念〜十遍の「南無阿弥陀仏」をお称えし、今日1日の無事に感謝することが、お念仏をする者の心得であるといえましょう。 そしてもう1つが、「仏教の“諸行無常”の心得をお諭しになられる面」であります。、これを下の句にありますように、人の命は無常でありますから、この眠りが、そのまま永遠眠りになってしまうかもしれないのです。今が最期の時と思って、往生を願い、お念仏して、眠りにつきましょうとお諭しになられていらっしゃるのです。 「老少不定(ろうしょうふじょう)」という言葉があります。人の死にゆく時期は、定まりのないもので、老人とか少年、若者とかは関係が無い」という意味でありますが、まさに「老少不定」とは、悲しくも世の習いであり、また“諸行無常”を言い表した言葉でもあります。 何時どこでどんな事が起こっても慌てない様に、平素からお念仏に励み、 そして常に、今が最期と思い、真剣に「南無阿弥陀仏」〜お念仏をお称えすること。これがお念仏をする者の心構えといえるでしょう。 さて、現在この歌は、「清水の舞台から」で有名な清水寺の『阿弥陀堂』の御詠歌となっております。清水寺は、浄土宗を開かれた法然様が、大勢の参拝者で賑わうこの寺で、戒(円頓戒)について説法され、また念仏のみ教えを説き勧められたゆかりの場所であります。そして、これを聞いてお念仏のみ教えに帰依された清水寺の勧進沙弥印蔵が、この『阿弥陀堂』で我が国初めての常行念仏を修せられたことにより、後柏原天皇によります「日本最初常行念仏道場」の勅額が掲げられております。 “常行念仏”のお言葉、そしてこのお歌に示された2つの心を、日々の生活に活かして、お念仏に励んでいきたいものであります。 |