法然上人の和歌〜その13

 ちとせふるこまつのもとをすみかにて 無量寿仏(阿弥陀仏)のむかへをそまつ
【現代かな】千歳経る小松の幹(下)を住処にて 無量寿仏(阿弥陀仏)の迎えをぞ待つ
【出典】『勅修御伝』三十巻。『和語燈録』六巻〜諸人伝説の詞の中に
【私訳】千歳もの長い年月を経た松がそびえるこの地にて、私は今、無量寿仏(阿弥陀仏)のご来迎を待って、お念仏に励んでおります。
【私釈】  このお歌は、法然さまが京都での晩年を過ごされた小松殿(現在の小松谷正林寺)でお詠みになったお歌と伝えられております。小松殿はもともと、平家繁栄の立役者、平清盛の嫡子である、内大臣、平重盛公の別邸でありました。平家一門は仏門護持の心が篤いことでも知られ、この小松殿にも重盛公が四十八の灯籠を灯して、阿弥陀さまの光明を讃え、念仏行道された灯籠堂が残されております。後に、法然さまに帰依された関白九条兼実公の山荘となり、この小松殿に何度となく法然さまを招き、お説教をいただくとともに、建仁2年(1202)正月には、兼実公が法然さまを師とされ剃髪出家され「円証」の法号を授けられた旧跡であります。兼実公は、法然さまのために、この地に住まいを建てられ、法然さまは、晩年(おそらく70歳頃から)をこの地にて過ごされたのであります。
 法然さまは、ここでの日々を大変気に入られ、また当時としては大変ご高齢でもあったため、おそらく、この地を終焉の地と思い、このお歌を詠まれたものと伝えられております。
 その地には、“小松”とは言いながらも、その地名と成る程、立派な、高く大きくそびえる松〜千歳もの長い年月を経た松があったのでありましょう。そして、その松を日々仰ぎながら、阿弥陀様のご来迎をいただき、極楽浄土へと往生されますことを念じて、一日、六万、七万遍と伝えられるお念仏に励まれていらしたことだと思います。
 阿弥陀さまは、その語源を、インドの古代言語、サンスクリット語である、“アミターバ(無量光)”、“アミターユス(無量寿)”に由来いたします。無量の限りない慈悲の光、智慧の光をそなえ、限りない命をもつ、仏様それが阿弥陀さまなのであります。故に「阿弥陀仏」を漢訳する際には、「無量寿仏」となり、このお歌の下の句は、『勅修御伝』では「阿弥陀仏」、『和語燈録』では「無量寿仏」とされております。ですから、その意味する所は同じであろうと思いますが、おそらく千歳と無量寿が対比されて詠われているところでもありましょう。
 「私は、千歳もの長い年月を経た、高く立派な素晴らしい松の近くに住んでいるが、それもこの世では限りあるものでありましょう。私はこれから、無量の限りない光と命を持つ阿弥陀さまのもとに行くのです。」〜そんな落ち着いた静かなお心持ちで、お念仏をお称えされている法然さまのお姿が浮かぶようなお歌でありましょう。
 しかしながら、この後、法然さま75歳の時、流罪の勅命が下り、法然さまは、この地から四国へと向かわれます。そのご様子については、ぜひ本コーナー18番、22番をご覧ください。
 現在、この地には、江戸時代に復興された、東山の名刹、小松谷正林寺が置かれ、法然上人二十五霊場の十四番となっております。私はまだお参りしたことがありませんが(平成17年10月現在)、今度京都へ行く機会がありましたら、法然上人自作と伝えられますご本尊“法然上人像”をはじめ、法然さまが見上げたであろう“小松”を、ぜひお参りさせていただきたいと思っております。