法然上人の和歌〜その15

 いけのみつ人のこゝろににたりけり にこりすむことさためなけれは
【現代かな】池の水人の心に似たりけり にごり澄むこと定めなければ
【出典】『勅修御伝』三十巻。『和語燈録』六巻〜諸人伝説の詞の中に
【私訳】池の水は、人の心に似ているようです
      濁ったり、澄んだりと様々に変化するのです。
【私釈】
 このお歌は、法然様がご自分自身の心の動きを内省されて詠われたものでありましょう。すなわち法然様ほどのお方でも、普段澄みきっている池の水が、何かの拍子に濁ってしまうのと同じ様に、そのお心が乱れ、煩悩にとらわれてしまう事があるという事をお認めになっていらっしゃるのであります。
 普通に考えれば、仏教とは、煩悩を滅し、心澄みきった状態、すなわち悟りの境地が理想なのであります。しかし、法然様は、厳しく自己内省をされた結果、人として生きる以上、煩悩は取り去る事の出来ない心であると確信されます。そして、そんな弱い、濁った心を持った人間でも、仏は救ってくださる存在であると確信し、すべてのお経を長い歳月をかけて、5回も読み通され、ついにすべての人をお救いする阿弥陀様の本願念仏の御教え を見い出されるのであります。
 その御教えとは、煩悩で濁った心を持っていても、「南無阿弥陀仏」とお念仏をお称えすれば、その声を阿弥陀様が常に聞いてくださっていて、いまわの際には必ずお迎えに来られ、極楽浄土へと往生させていただけるというものであります。これは、それ以前の仏教にとっては、1つの改革と言えるほど、大きな業績であり、今、私たちは、その法然様の切り開かれた、阿弥陀様の御教えを信じ、奉じてお念仏申すのであります。
 しかし、だからと言って、「お念仏すれば、煩悩だらけの私でも大丈夫」などと開き直ってはなりません。「煩悩だらけの私だけれども、そんな私でもお念仏をお称えすれば、阿弥陀様が救ってくださる…なんとかたじけない事なのだろう。なんと有り難い事なのだろう。」そんな真摯な内省をされた方の心にこそ響く御教え、・・・それがお念仏なのであります。
 また、法然様は別のご法語において、「人の心はお猿さんが枝から枝へと伝っていくように、落ち着きのないものである」、「人の心から煩悩を取り去るのは、生まれつきある目や耳を取ってしまうのと、同じ様なものである」とおっしゃっております。だからこそ、私たちは、煩悩を滅しきれない自分を認めて、その身そのままで、阿弥陀様のお救いを信じて、ただひたすらにお念仏に励むべきでありましょう。
 さて、現在このお歌は、浄土宗大本山であり、『法然上人ご遺跡二十五霊場』の24番でもある、京都黒谷、金戒光明寺のご詠歌となっております。この金戒光明寺は、承安5年(1175)の春、法然様が阿弥陀様の本願念仏の御教えと出会い、これを弘めるために長年過ごされた比叡山を立ち去り、京の都に下りてきた時、この地にあった1つの石に腰掛け、西に沈む夕日に向かって、「南無阿弥陀仏」とお念仏をお称えされるや否や、たちまち紫雲たなびき、光明輝く瑞相を感得されて、この地に草庵を結ばれた事が発祥となっております。現在、その石は“紫雲石”と呼ばれ伝わると共に、その山門には、ここが浄土宗の発祥の地であるという事を記念して、後小松天皇より賜わりました『浄土宗最初門』という勅額が掲げられております。
 私自身もこちらで修行をさせていただいた事もあり、法然様のご真筆と伝えられます『一枚起請文』、恵心僧都の最後の作品と伝えられます阿弥陀堂の『おとめ如来』(阿弥陀如来像)、『山越阿弥陀如来の図』(重文)などなど、見所も多い、思い出の地であります。