むまれてはまつおもひ出んふるさとに ちきりしとものふかきまことを | |
【現代かな】生まれてはまず思い出でん古里に 契りし友(朋)の深き誠を | |
【出典】『勅修御伝』三十巻。『和語燈録』六巻〜諸人伝説の詞の中に。『新千載集』。『夫木鈔』 | |
【私訳】 私がお浄土に往生しましたら、まずは思い出すことでありましょう。共にお念仏に励み、お浄土でお会いしましょうと約束した方々の深い誠の心を。
【私釈】この和歌は、法然様が、お浄土に往生された後の事を詠われるという大変珍しいお歌であります。お歌の意味はそのままでも明らかでしょうが、その中には、先に逝く者として、共にお念仏に励んでいた朋友に対して、その深い誠の心で変わらずにお念仏にお励みくださいという願い、そして終に往生される時には、お浄土の同じ蓮のうてなで必ずお待ちしておりますという2つのお心が込められたものでありましょう。 | 浄土教を大成され、法然様が師と仰いだ唐の善導大師様の往生礼讃では、その一節一節が「願共諸衆生往生安楽国(願わくは諸々の衆生と共に安楽国(=極楽浄土)へと往生いたしましょう)」と結ばれており、共にお念仏に励み、お浄土へと生まれることが浄土宗のみ教えの根幹であります。また阿弥陀経には「倶会一処(倶に一処(=極楽浄土)にてお会いする)」という言葉が記され、お浄土では時間や距離を越えて、必ず大切な方に再び会えることが明らかにされております。 日々生きていく中で、最も大きな悲しみの一つは、大切な方、かけがえのない方との別れでありましょう。しかしこのお念仏のみ教えは、この私が亡くなっても極楽に往生する事が出来、そこから遺していかなければならなかった人達を見守ることも出来る、そして待つことも出来、いつか再会することも可能なのであります。この世だけでなく、来世、後世でも共に歩むことが出来る…それが極楽浄土なのであります。どうぞ皆さまも共にお念仏をお称えし、その喜びを分かち合おうではありませんか。 現在この歌は、法然上人25霊場の第3番であります、兵庫県高砂市の十輪寺さまの御詠歌となっております。十輪寺さまは開山に弘法大師空海さまをいただく由緒ある寺院であり、その後鎌倉時代になって、法然様が四国へ赴く際にご滞在され、そのわずかな時間にも村人にお念仏のみ教えを説かれ、多くの人と仏縁を結ばれた事から、中興開山に法然さまをいただいており、現在は浄土宗西山派のご寺院となっております。 以下のお話は、法然様のお伝記『法然上人行状絵図』に記されたもので、この高砂の地でのお話であります。 この地で多くの人へお念仏のみ教えを説かれた法然様でしたが、その中に七十余歳の夫婦者がありました。お二人は法然様のもとへ連れ立ち、「私たちは、この入江に住んでいる漁師です。幼いころから魚や貝などをとるのを生業(ナリワイ)として、朝から夕方まで一日中、魚の命をうばい生活の手だてにしています。生きとし生けるものの命をとり殺す者は、地獄に堕ちひどい仕打ちを受け、苦しみにあえぐということですが、こうしなければ生活していくことのできない私たちは、どうしたらこの苦しみからのがれ出ることができましょうか。どうぞお救い下さい」と言いまして、泣きながら手を合わせ、救いの道を教えてほしいと法然様にお願いいたしました。法然様は、「そなたたちのような暮らしをしている者でも、南無阿弥陀仏と称えれば、阿弥陀仏の慈悲深い本願の力に助けられて、極楽浄土に生まれることができる」と、ねんごろに教えられましたので、お二人とも感激の涙にむせびながら大変喜ばれたそうであります。お二人はそれからというもの、昼は漁をしながら、ロには念仏を称え、夜は家において夫婦一緒に夜通し念仏をされたそうで、ご近所の方たちも驚くほどであったと言います。こうしたお念仏の功徳により、ついにおとずれた『いまわ』の時にも、お二人とも安らかな気持ちで往生の望みを達したそうであります。後日このことを、人伝てにお聞きになられました法然様は、「この二人のお話は、念仏申せば必ず往生するというあかしを得たものといえよう」とおっしゃったそうであります。 お念仏をお称えしていれば、この私が、必ず阿弥陀様のお導きをいただき、お浄土へと往生させていただける。その安心感をかみしめ、いまあるこの日々をお念仏と共に、精一杯歩んで行こうではありませんか。 |