阿弥陀仏と申すはかりをつとめにて 浄土の荘厳見るそうれしき | |
【現代かな】阿弥陀仏と申すばかりを勤めにて 浄土の荘厳見るぞ嬉しき | |
【出典】『勅修御伝』三十巻。『和語燈録』六巻〜諸人伝説の詞の中に。『夫木鈔』の釈教歌の中に | |
【私訳】 南無阿弥陀仏と、お念仏を一心に称えているうちに 阿弥陀様にお逢いし、お浄土の御有り様を拝見することができたことの嬉しさよ。
【私釈】この和歌は、法然様が、お念仏の声の中、西方極楽浄土の御有り様をご覧になり、阿弥陀様とその菩薩衆にお逢いした時の喜びの心境を詠ったものであります。 | 法然様は、普段毎日数万遍ものお念仏を称えられておられたと伝えられております。そして御歳六十六才、ついに三昧発得の境地に達し、仏様にお逢いすることが実現いたします。三昧発得とは、心静かに念仏を称えて専らなるとき、求めずしておのずから仏様や極楽浄土の世界を感じ見る、崇高な宗教体験のことであり、以後、法然様は幾度となく体験された様であり、その自らの宗教体験を『三昧発得記』として書き留められ、これを秘蔵されておりました。また、浄土の荘厳とは依報荘厳と正報荘厳との二種を指し、依報荘厳とは西方極楽浄土の厳かな御有り様をいい、正報荘厳とは阿弥陀様をはじめとして観音菩薩、勢至菩薩などの菩薩衆の麗しく尊き御姿をいいます。 この詳しいご様子は『三昧発得記』に記されておりますが、このような観相の念仏、定心の念仏の実践は非法然上人的に思われるが故か、自身はこれを秘蔵されて、生存中は誰の目にも触れず、お弟子である源智上人に相承されました。そして源智上人もまたこれを秘蔵していたため、なかなか披露されることがありませんでした。現在この和歌は、奈良の往生院の御詠歌として親しまれています。 |