法然上人の和歌〜その18

 露の身はこゝかしこにてきえぬとも こゝろはおなし花のうてなそ
【現代かな】露の身はここかしこにて消えぬとも 心は同じ花(華)のうてなぞ
【出典】『勅修御伝』三十四巻。『和語燈録』六巻〜諸人伝説の詞の中に
【私訳】私たちの命は、草葉の露のようにはかなく消えるものではありますが、その心は、同じく阿弥陀さまのお国、お浄土の蓮のうてなにあるのです。ともにお浄土でお会いいたしましょう。
【私釈】この和歌は、法然さまが75歳の時、お弟子さまの不始末の責任を問われ、京の都から四国へと流罪になられる際に、法然さまに深く帰依され、また庇護者でもありました前の関白、九条兼実公との別れを前にして、残されたものであります。
 九条兼実公は、平家を打倒した源頼朝の後ろ盾によって、38歳の若さにして藤原氏の長者となり、今で言えば内閣総理大臣とも言える摂政、関白に昇りつめ、征夷大将軍の宣下を行うなど、鎌倉幕府の隆盛とともに一時の栄華を誇っていましたが、ほぼ同時期に後継ぎの長男良通を若くして失い、悲しみに打ちひしがれたその中で、当時京の都にて、浄土宗を開かれ、お念仏を弘められておられた法然さまと出会われ、その貴い人柄、御教えに深く帰依され、以後はお念仏の日々を送りながら、新しい宗派であります浄土宗教団を篤く庇護されておりました。しかし、宮中の権力争いに敗れ、関白を退くや、政敵のいやがらせによって、その精神的な支えでいらっしゃった法然さまを、遠く四国へと流罪にされてしまうのです。その時、兼実公は59歳、すでに法然さまは75歳と御高齢でありましたから、兼実公にしましたら、今生の別れが、永遠のお別れの様に感じたのではないでしょうか。その心中たるや…、自分の政治力の及ばない無念さ、そして、師と仰ぐ法然さまとのお別れの悲しみが渦巻いていたのではないでしょうか。
 そして兼実公は別れを惜しんで、法然さまにお手紙を送り、その中で、「ふりすてて行くは別れのはしなれど ふみわたすことをしぞ思ふ」〔私訳〕「この私をお見捨てになられ、長い旅にお出ましになることは、今生の別れとなるはじめなのでしょうが、なんとしてもお便りだけはして、勅免をいただき、お帰りのはし渡しに心をくだきたいと思っております」という1首の和歌を詠います
 そんな悲しみにうちひしがれる兼実公に対して、法然様さまは、お返事のお手紙の中で、「私たちの命は、草葉の露のようにはかなく消えるものではありますが、その心は、同じく阿弥陀さまのお国、お浄土の蓮のうてなにあるのです。ともにお浄土でお会いいたしましょう。」と、この和歌をお返しになられ、極楽浄土での再会をお約束されたのであります。
 誰にでも、大切な方との、お別れがございます。どうしようもない悲しみ、寂しさにおそわれることもあるでしょう。しかし、このお歌は、また必ずお浄土での再会ができますことを教えてくださっている・・・心にしみいるようなお歌かと存じます。
 また、法然さまは、お手紙の中で、「浄土の再会はなはだ近きにあり、今の別れは暫しの悲しみ、春の夜の夢のごとし」とおっしゃります。阿弥陀さまの本願のお力によって、いつか極楽浄土で再会できることを信じ、日々の暮らしの中でお念仏に励み、それぞれの立場において、努力、精進することこそが浄土宗のみ教えの真なのです。そして、そのお姿を亡き人がお浄土から、安心して見守ってくださることこそ、なによりのご供養となるのです。
 大切な方との、お浄土での再会の時、あなたはどんなご報告ができることでしょうか

 さて、現在この歌は、京都府長岡京市にございます浄土宗西山派の総本山『光明寺』の御詠歌となっております。この地、粟生野広谷の里は、法然さまが43歳にして、浄土宗をお開きになり、比叡山を下りられた時、最初にお念仏の教えを説かれたという聖跡であり、「浄土門根元地」とも称されております。さらに法然さまのご遺骸が17回忌にあたる安貞2年(1228)、荼毘に付された地でもあり、御本廟とともに御火葬跡、石棺などが伝えられております。また、法然さまが後の形見にと、自ら母君からの手紙を塗り込めてお作りになられた「張子の御影」をはじめ、重要文化財でもあります「二河白道図」、「来迎図」など、数々の寺宝も伝えられ、一度はお参りされることをお勧めいたします。特に秋の紅葉の季節、境内はまさに極楽浄土を思わせる情景となります。