ふぜうにて申す念仏のとがあらば めしこめよかし弥陀の浄土へ | |
【現代かな】 不浄にて申す念仏のとがあらば 召し籠めよかし弥陀の浄土へ | |
【出典】『法然聖人絵』弘願本巻二に。 | |
【私訳】お手洗いの中で、申すお念仏に、罪があるというならば、どうぞ私を召し取り、阿弥陀様のお浄土へ、閉じ込めてください。【私釈】この和歌は、法然さまのお伝記であります『法然聖人絵』(弘願本巻二)の中に、法然さまが、お手洗い(厠)の中で、お念仏しておられる絵とともに描かれている、とても珍しいお歌であります。お歌の前には「上人かわやにて、お念仏ありけるを、ある弟子いさめ申しければ」、すなわち「法然さまがお手洗いでお念仏されていらしたのを、あるお弟子さまが、ご忠告したところ」と詞書がされており、お念仏の大きな特徴を表したお歌といえると思います。 | すなわち、浄土宗のお念仏、法然さまのお説きになられたお念仏の御教えは、いつでも、どこででも、「南無阿弥陀仏」とお称えすれば、阿弥陀さまがその姿を見て聞いてくださり、必ずお浄土へとお救いくださるというものなのであります。宗教とは、身も心も清め、特別な場所で、何か特別な事をしなければならないものように思われがちですが、浄土宗のお念仏は、普段のまま、いつでも、どこででも、お称えすれば、必ず阿弥陀さまの大慈悲をいただけるのであります。ですから、お手洗いの中で用をたしている、いわゆる“不浄”な時、お念仏していても全く差障りは無く、お弟子さまのご忠告に対し、法然さまは、やんわりと、お歌をもって、教え諭されたのであります。 そもそも浄不浄、清め穢れという問題は、人間が勝手に作りあげた基準であり、阿弥陀さまの大慈悲は、そんな人間の価値観など遥かに超えたスケールの大きいものなのです。しかしながら、当時の貴族社会では、これらを肯定し、とらわれていたのが現状でありました。その中にあって、法然さまは、お伝記の中で、仏教には物忌みや清め穢れという区別はなく、人々を悩ます迷信等を憂い、ばっさり切り捨てておりられます。これは当時としては、かなり勇気のいる革新的な発言であり、いかに法然さまが仏教の本質を深く理解し、誤った常識にとらわれることなく、それを真正面から説いておられた実直な方であることが分かります。その方が“仏の本願に順ずるが故に”とお説きになられたのが「南無阿弥陀仏」の言葉、お念仏なのであります。 お伝記の中に、わざわざお手洗いの絵が描かれ、この和歌が取り上げられていたのは、お弟子さま達が、実際にその場面に遭い、法然さまがお説きくださったお念仏の真意に感動し、その御教えを、後世に伝えんとする気持ちがあったからこそと思います。この志をうけ、私たちも、日々の生活の中で、なお一層、お念仏に励みたいものであります。 |