政治学科蔭山研究会在学中に同期生たちと「1920年代と現代」という三田祭発表用論文集を作ったときの文章(現物を無くしてしまった=人に貸したままのような気もする..ので他の連中がどんな文章を書いていたかは思い出せないのですが..)です。大学に入って初めての論文なので、脱稿後、論文の形式上の欠陥も指摘されたのですが(まったく「引用」が無いなど..)原文のままネットに再掲します。

 

 

 

産児調節をめぐる20世紀初頭の歴史

小林多加志
1 はじめに ここでは19世紀後半から20世紀前半へかけての欧米先進国各国での産児調節(birth controll)運動をあつかう。この時期、個人レベルにおいては、貧困による子育ての苦難から女性を救うため、そして全体的なレベルにおいては出生率の低下、その一方で労働者層での人口増などに対応するため「何らかの形で子供の数を調節することの必要性」が生じてきている。そして20世紀に入ると世界大戦など「国家」が見えてくる。産児の調節という問題は道徳的な問題から、(仮にそれが道徳的な意味合いで述べられていても)政治的な問題となる。産児調節において国家が「人口増」という面から産児調節に反対するというみかたも、「国民の質的向上」という点から優生学的に産児調節を進めるという面もある。これらはいずれにせよ出産という個人的なことが国家・社会という全体的な問題へととりこまれていくのである。 これが私の問題意識である。前近代から20世紀前半へかけての「産児調節」の運動をめぐる背景、そして新マルサス主義、サンガー・ストープスら産児調節運動史を整理する。

2 背景(前近代から近代へ)

(1) 近代家族の形成 前近代の家族を集合生産的、農村集落的なもである。産業革命以降の都市家族においては、男性による労働と女性による家事・子育てという性的分業が発生した。またこうしたなかで出産や子育てが共同的なものから個別の家族(もっといえば女性)の責任となってくる。 この近代家族のモデルがどのように誕生したのか、そのメカニズムはよくわからないが、例えばイギリスにおいてはジェントリの生活様式が徐々に生産力を増した中産階級よって模倣されたと見ることができるし、国家統一・産業革命が遅れたドイツでは、最初から国家が、国家を支える基礎的な共同体としての家族像があたえられたとみることができる。

(2) 解剖学と女性の体の歴史  前近においては、男女の生殖器は基本的に同じ性質のものとされていた。女とはつまり外にあるものが内にある「不完全な男」(%1)であるという見方がなされた。聖書のイブはアダムの一部から生じたとする記事もこのような見方のひとつである。つまり女性は劣っているとされたが、その差異は決定的なものではなかったのである。また、女性の子宮からはやはり快楽によって精液が放出され、それが男性の精液と混合することで受胎するとされた。そして女性においても快楽を得ることがむしろ奨励された。  しかし近代(18世紀以降)に入ると、男女の差異は根本的なものであるという見方が生じる。それはまず子宮・卵巣において根本的であり、また胎盤の強調(それはコルセット等の着用でさらに強調される)など骨格的な観点などももそうである。  同様に精液の混合とする説は消え「卵」とその周期的な排出の存在があきらかになってきた。このため女性は性欲を持たないものとされた。  そして、ヒステリーなど女性の体の不調や、あるいは貞淑さにかけたり、家庭的でなかったりなどの、逸脱的な事態は性的な原因に帰され、医療的処置をおこなった。直腸への氷水の注入やクリトリスの切除手術などである。もちろんこれは医学的な治療であるが、その効果はむしろその懲罰性に帰するのであろうが。  また出産が産婆など身内的なものから、産科学の発達とともに医師(そしてそれはフェミニズム的言説にいては男性・国家という意味合いでもちいられるのであるが)などの管理下におかれた。  このような男女に根本的な差異をもつとする見方は、特に子宮という母親であることを規定する器官は、性役割として女性は従属的であるにもかかわらず、それを正当化した。また逆に前近代に男女の上下関係が公言されていた面と比べると、その差異を武器に、「女性の徳」を女性の社会的な地位を高めて行くのに利用する運動がみられるようになった。いわゆる母性主義フェミニズムの源流である。この「女性の徳」の独自的な価値をもたせるため道徳性を強調した、それは母性(そしてそれにともなう家庭性)の称賛、そして性的なものの否定である。 (%1)「女の解剖学」P15以降にギリシャ時代以降の言説がまとめられている。

3 19世紀末の状況、新マルサス主義

(1)背景  サンガーらの産児調節運動がおこる以前にも、19世紀後半から出生率の低下は欧米各国ではじまっていた。それは(おそらくは新マルサス主義[後述]のビラや口コミで)避妊知識および器具がある程度広まっていたことがわかる。また「上層は避妊、下層は胎児の処分」(%1)といわれたように19世紀末ごろは避妊具等を使用しての避妊は裕福な中間層以上に限られていた。労働者層は堕胎により出生数を制限したわけだが、それは切迫した生活による必然であり、知識が普及していないのでは当然のことではあるが、女性のネットワークで手に入れた特殊な茶や薬物の使用や高いところから飛び降りる、熱い湯に浸かるなど前近代的な方法がとられた。  20世紀に入ると労働者層にも避妊が普及し始める。労働者層での「中間層的生活の模倣」が意図されて行われはじめたと言える。 なぜ子供の数を減らしたがったのか。それは基本的には経済的なものがあるといえる。子育てが共同体から家族もっといえば母親のものへと移ったこともあり、子供の数を減らして生活レベルを上げ、またより良い教育をほどこそうとしたのである。ただし、それはむしろ都市の中間層であり労働者層であり、農村そして農村から都市へ移住した第一世代などは多くの子供を持つ傾向があった。  こうしてみるとサンガーらの産児調節運動の以前においても避妊は行われていたのである。ただしサンガーらの運動の意義は正確な知識を与えたことであって、また性について語れない社会の状況においてあえてそれをしたことであり、また女性の主体的な意志の確保の手段としていたことにあるといえる。 (%1)「労働者家族の近代」 P177

(2)マルサス「人口論」、新マルサス主義  1789年発表のマルサスの人口論は、幾何級数的(等比級数的)人口増加が算術級数的(等差級数的)な生活資料の増加についていかないことから窮乏状態がもたらされるとし、禁欲および晩婚による人口抑制を提示した。マルサスの議論は労働者階級の貧困の原因を労働者階級の道義的責任に帰し、「救貧法」などの社会政策を否定した。マルサスの議論は、貧困を分配上の問題でなく労働者自信の責任にしたため、労働者階級・社会主義運動家から非難を浴びた。底辺としての労働者階級を人口抑制の対象とすることや、適者生存的な見方など社会ダーウィニズム的な素地を持っていた。 19世紀中頃から始まった新マルサス主義運動は、社会的貧困を無くすために人口の抑制を必要とするという点ではマルサスの議論を受け継ぎつつ、方法論としては晩婚等の禁欲的方法ではなく、むしろ早い結婚後に人工的手段つまり避妊により子供の数を減らすというより現実的方法を提案した、功利主義的な(J・Sミルなどはこの運動に実際に参加している。)運動である。新マルサス主義者たちの運動の方法は、避妊の必要性と具体的な避妊の方法が書かれたパンフレットを配布するというものだった。このことはあからさまに性について論じたり、女性は性的な事柄に無知で受け身でなければならないとする当時の風潮からすれば当然「危険思想」であった。

(3)労働運動・社会主義思想  エンゲルスが「家族・私有財産・国家の起源」に予言したのは、資本主義の崩壊とそれにともなう女性労働が家長父性的家族制度や性的分業の崩壊を起こすということであった。時代は下るが革命後のソビエト政権では望んでいない子供を産む要請から女性を解放し女性の権利を向上させ、同時に非合法な堕胎とそれにともなう母体の高い死亡率を減少させるため中絶が合法化された。  社会主義運動においてはこのように女性の労働やそれを補助する産児調節を求める運動になっていくかと思われるが、一般的に社会主義運動の指導者たちは女性には冷淡であった。それは女性の労働により、職を失う男が存在するのであるし、また競合により賃金が落ちるからであるし、社会主義集団内部のカトリック教徒などの保守派の存在もある。  また産児調節についてもフェビアン協会派など積極的なものもあったが、一般的にマルサス主義は労働者階級にとって敵となるで理論であるとされた。

(4)フェミニスト フェミニストは19世紀末には参政権獲得、売春反対、高等教育・専門職への進出などを求めた運動をおこなっていた。フェミニストたちは自分が何人の子を産むかを自己決定する権利を求めていたが、当時は新マルサス主義と共闘はしなかった。当時のフェミニズムは産児調節の手段としては禁欲こそが望ましいと考えていたからである。もちろんそれはヴィクトリア朝的精神からきているのではあるが、主たる主張は、男と女では許される性規範が異なること(ダブルスタンダード)を男性の道徳的禁欲から改善することあったからである。また女性が真に自立的な生活をおこなうには独身をつらぬくより他ないとする「独身主義」の主張がみられた。

(5)キリスト教  キリスト教の伝統においては、夫と妻が子を産む目的以外での性交がゆるされないものとされてきた。もちろん堕胎もそうであり、魔女狩りで魔女とされたのは主に堕胎にかかわったとされた産婆であった。しかし前近代の教会による監視とその厳格さは19世紀の都市部においては弱体化していた。  とはいえたとえばアメリカにおいては、保守市民を巻き込んでの社会浄化運動がおこなわれた。この結果1873年コムストック法が制定された。これは性的な書物、そして避妊堕胎等を引き起こすとされた書物の輸送を禁じる連邦法である。

(6)医学界 医師たちは総じて避妊にたいし反対していた。それは近代科学の台頭によって医師は協会にかわる新しい性道徳についての専門家、擁護者を自認していた。避妊についての知識が広まり、女が母親としての役割をないがしろにしたり放棄したりすることのないよう指導することが、医師としての社会的責務と信じていたからである。

20世紀初頭のサンガー/ストープスの産児調節運動

(1)アメリカでのサンガー、イギリスのストープス マーガレットサンガーは第一次世界大戦前のアメリカで左翼運動に参加していた。ここで非熟練労働者家族においての避妊に対する無知と、貧困に輪をかけた多産、非合法な堕胎をまのあたりにし、1912年のコラムの連載を皮切りに「産児調節(birth controll)」の知識普及の運動をおこなうようになる。亡命し、帰国後、貧困層や左翼運動だけでなく、多様な社会層を取り込み産児調節運動の旗手となる。 マリー・カーマイケル・ストープスはサンガーに若干おくれて、イギリスにおいて活動した。1918年の「結婚愛」の出版や、避妊クリニックの開設など方法的にはサンガー同様の手法がとられた。

(2)プロパガンダ活動 サンガーおよびストープスは、著作活動などにより避妊の知識の普及を行った。コムストック法などの猥褻な書物を制限する法律が存在したが、知識の秘匿を構造的に行うこれら法律の改正をもとめる運動より、彼女たちは、より直接的に避妊の知識を広めなければならないとした。このため意図的に派手な言動で人目を引くという戦略が取られ、自分達が訴えられた裁判においても、それを宣伝の手段として利用さえした。

(3)女性の自立、性のタブーからの解放 女性が主体的に出産を決定する権利を取得するため、というフェミニズムの思想が彼女たちの運動のスローガンとなっている。ただししばらくの間(大恐慌前あたりまで)フェミニズム団体はサンガーらとの交流を持たなかったのは前述した通りである。また、この段階においては、ハブロック・エリスなどの性科学の影響もあって、そこには女性の快楽の追求という視座もとりいれられた。つまり、男性の性欲とそれをただ受け止める女性という構図がとりはらわれ、ここにおいても主体的な女性像を提示したのである。

(4)クリニック  1882年、医師でフェミニストのアリタ・ヤーコプスによりオランダで世界初の避妊クリニックが開設された。このヤーコプスのクリニックでは貧しい女性にたいして無料で避妊の指導をおこなった。このあとオランダでは新マルサス主義の医師J・ラトガースにより各地にクリニックが建設され、階級差にかかわらない出生率の低下、およびオランダ人の体格の向上のなどの効果をもたらし、避妊の先進国とであった。 サンガーはその運動の初期においては、避妊についてセルフヘルプ的な手段を指向していたが、ラトガースの影響もありクリニックの必要性を認め1916年には実質的にアメリカ初の避妊クリニックを開いている。ストープスも同様にイギリス初の避妊クリニックを開く。

(5) 避妊と中絶 しかし、サンガーもストープスも避妊による女性の解放をもとめつつも、中絶に対しては拒否反応を示した。それは、サンガーはその運動が社会に受け入れらるために戦略的に中絶の議論をしなかったのであり、またストープスは自身の価値基準にしたがって堕胎を拒んだのであったが、いずれにせよ彼女らの著作やクリニックでは中絶に関することはあつかわれなかった。 しかし避妊は不確実なものであるし、また避妊の知識がいちおう広まった段階でも(1930年頃)堕胎は水面下では相当数の堕胎がおこなわれていたのであったとされている。 中絶の合法化を求める運動としてはステラ・ブラウンやドラ・ラッセルらの運動において、「主体的に生きるための権利」という思想を意図的に隠しつつも、母体の安全の確保という実際上の観点から、中絶の合法化運動がおこるようになってからである。

(6)優生学との関連 優生学はナチスが人種差別政策として利用したため現在では否定されているが、当時は科学の一分野としてとらえられていた。優生学(eugenics)の命名者はイギリスのフランシスゴルドンであり、ダーウィンの影響をうけつつ、進化は人為的に促進させなければならないとした。この優生学は19世紀末の階級間の出生率格差などによりより現実的な問題としてとらえられるようになった。サンガーやストープスらもこの「優生学」立場にたっていた(精神薄弱者などは断種しろとさえ主張している)。そして、彼女たちのバースコントロール運動もこの「優生学」の運動と提携して、主張されそして受け入れられていったともいえる。

おわりに

この論文集は「1920年代と現代」というテーマで編成されています。1920年代が一般にどのようなものかは先生や他の論者たちが語ってくれているはずですのでここでは省きます。私の1920年代というのは冒頭にも述べた通り「個人的なものは全体的なもの」となるという視点ですので、若干他の論者との差異があるかもしれません。 論文を見直してみるとなんか結局書ききれなかったという感じです。まず第一に冒頭で「全体」の例として「国家」を挙げているし、人口増をねらう国家と産児調節の対立という構図というのがかなり明確な図式としてみられるのに、「国家」についてかけなかったということ。また母性主義フェミニズム運動や、戦争動員による女性の公共圏への進出という議論も当初予定したのに入らなかったということが挙げられます。 そして後悔の最たるものは、最初は事実の列挙だけにとどまらず、思想的な(特にフーコーの)観点を出そうとしたのですが、なんとなく失敗してしまったということです。 「思想は自由」といいますが、結局資料のまとめに終始してしまい、自分の観点を出す余裕と勇気がなかったということですが、「思想を自由にしていないのは自分自身なんだな」というのが実感です。 さて、私はここ3年ほどポルノグラフィの社会的位置づけについて興味を持って研究しています。「1920年代と現代」いうテーマをあたえられて思い付いたのはとこのポルノグラフィ同様「被害者なき犯罪」であるところの堕胎という問題です。もちろん同列比較できないのはわかっています。「ポルノグラフィ」がある意味確信犯的に自分を定義付けるのに対し、堕胎の問題は性の問題ではあるのですが、生活と生命がかかった問題であるのですから。ただ、共通の敵がヴィクトリア朝的な規範と、保守層の社会運動と、国家であるという点であるという点です。 産児調節の研究をはじめてみると、意外にマイナーなテーマかと思っていたのですが、そうでもなくて特にフェミニズム運動との関連や、近代医学との反発や、優生思想との接近などといろいろ興味深いテーマが発掘されてきたので、この論文はそういったテーマを列挙して終わってしまったという意味で失敗なのですが次につなげていけるものとなったと思います。

参考文献紹介 「生殖の政治学」荻野美穂 山川出版  この論文のタネ本とでもいうべき本。新マルサス主義の時代と、サンガーらの産児調節の時代の区分。また医学、優生思想、性科学などとの関連について。 「制度としての<女>」平凡社  「女の解剖学」荻野美穂  医学の発達と近代的な女性観の誕生について。  「労働者家族の近代」姫岡とし子  ドイツの制度的な「家族」形成について。社会主義者の保守性と女性。労働者の生活の小市民化。 「近代ドイツの母性主義フェミニズム」 姫岡とし子 勁草書房 「女性史の視座」吉川弘文館  「性差の歴史学」荻野美穂 「被害者なき犯罪」エドウイン・M・シャー 新泉社 「出産の社会史」ミライユ・ビジェ 勁草書房