ある男の物語
はじめに
 MRCLUBへアクセスしていただいた方、こんにちは。
ト ップページにアクセスして、「ここ、飲み屋のホームページ??」と思われた人、ごめんなさい。関東地方某県にすむ男が、友達と作りました。立ち上げるにあたってエッセイを書くことにした。よろしくお願いいたします。
健太郎の分も、生きる

2020.9.30夕食時母が「孫を送った後、入舟物流サービスのトラックが走っていた。健太郎のオヤジさんいたよな」と話していた。
 「明日、命日だよ」
 「健太郎が思い出してって、来たのかなあ」と、思った。
 合掌・・・・・・・・・・・。
 あいつも、シゲちゃんと同じようにディシャンヌ型筋ジストロフィーという、筋肉が壊れていく難病を個性にもっていた。性染色体劣性遺伝病であるが、健太郎の場合は突発性で下にいる3人の弟たちには発症せず。健太郎は湾曲がひどく、高校進学はしなかった。僕は、お受験でダウンし卒業式欠席し、健太郎に会ったのは19歳の時だった。自治医大でのリハビリ後母にばったり。病室に招かれ・・・・・・・・。切開したやつがいた。
 中学生時代にあった男だけの技術家庭の90分授業、超楽しかった。誰も乗っていない自転車を改造していたり。塗装していた。中2時「明日お金を持ってきて、授業を抜け出そうぜ」と計画し、健太郎だけ持ってこなくて学校に置き去りして買い物を楽しんだ。もちろん担任から雷が落ちた。お詫びに健太郎に300円分のお菓子を3人から全部差し出した。「置き去りして、ごめん」と言いながら。そんなことをしても、友人だった。「土曜の夜、パパとママの部屋から悩ましい声が聞こえた」と言われ、思春期の僕らは、にやついた。
 1998.10.1当時インターネットを電話回線でしていた。東埼玉病院で20時に亡くなったと連絡をリアルタイムで受けられなかった。
 何見ていた?
 F1日本シリーズの時期だったから、友人にメールした後、車のサイトに訪れていたと思う。
 健太郎の分も、生きる。健太郎の母ちゃんと弟たち、元気かな?

「遊びながら自立」考えられるレジャースポットがここにある

今回のエッセイは、掲示板に寄せられたご要望から選ぶ・・・・・・。ほんの感想。うーん。レジャーなら何とかなるので、書きます。♪ミッキーマウス、ミッキーマウス♪で有名な東京ディズニーランドまたはシー。多い人はつき1回行くようだがこむは10年にいっぺん行けばいいほうだ。行かなさすぎ??)この前、いったのは職場での旅行5年前。でへっ。行ってみたいがなかなか。行っても乗れるものって限られるからなあ。流行にのってないねえ。
 ここで、一口メモ。障害者、高齢者のためにシーでは「この乗り物何時に空きますよ」ということを教えてくれるサービスがあるらしい。要チェック。
 そんな僕が薦めるレジャースポット。それは1000坪の土地に南向きにあった。突如、街中に現れた6階建てマンション、通称ハーモネートハウス。それはとてもファッショナブルで障害ある、なしに利用できるユニバーサルデザイン設計になっている。基本家賃、6万8000円から。障害者の場合は社会福祉協議会に別途ヘルパー派遣を頼むかどうか、オプションでついてくる。しかし、決めるのは自分自身である。建てたのは、混むの家を設計、監修したチームが株式会社化し、2001年7月栃木県佐野市に誕生させた。僕自身、この建設計画を聞いたとき、「いい。家を出て暮らしてみようかなあ」と思ったが、経費と勇気がなく実行にいたっていない。でも、男25歳チャレンジしてみたくなった。姉も順調に生活営んでいるし、自分でできること、できないこと改めて知っておきたいから。障害者入所施設のようなある意味管理された空間ではなく。(カッコつけてないか。俺)それに、人に出会いたいから。
 混むが、なぜここをレジャースポットとして紹介したいのか。このマンションの隣りにレストランから病院、ホテルまで兼ね備えている「ビジターセンター」が建っているから。ここには歯医者などで、通った。ドリルも痛いーっというものではなく心地いい痛み。機械でだめなときは手掘りされた。無理やりではなく、呼吸をあわせてくれる感じで、通院するのが楽しみだった。2つあわせて「ハーモネートスクエアin sano」だ。住居だけを見ると、お金のことだけが頭を過ぎるが、センターの吹き抜けがある玄関ホールから中に入ると、隅からすみまで高品質で築き上げられ錯覚が起きてしまうほど別世界が広がっている。自然に会話がうまれるような。最近、いったのは6月末。用事を済ませ、くもり空のもとお気に入りのカフェテラスで食事。オープン当初より周りの木々も、育ち心地よい風を運んできてくれた。人の往来も激しくなっていた。一年の月日を感じられずにはいられなかった。

みなさんも「遊びながら自立」考えてみては。

巨人は友情の架け橋

2002年5月31日、日韓共催でFIFAワールドカップサッカー2002が開幕する。日本代表には、あのベテラン「ゴン中山」入った。「ゴン・ゴール」が見られると思うと、うれしくなる、今から楽しみだ。けど、やっぱり野球がいいなあ。好きなチーム「読売巨人軍」。日記帳にも書いてあるけど・・・・・・・・。勝つと、ご機嫌がよく、負けると暗くなっていた。幼い頃から。
 なぜあの頃、好きになったんだろう・・・・・・。記憶をたどる・・・。桑田選手がいてテンポのいい投球で「三振」を奪う姿、打たれてもびしっと取る野手の姿にほれぼれしていたからかなあ。そういえばあの人のフォームを真似て、立てない僕、イスに座りながら窓にぶつけ、戻って来たボールを取る「一人キャッチボール」という遊びを生み出し、していた。なげるスピードによっては跳ね返り強くあごにぶつかって来た。ちょっとびびったがいい思い出だ。
 2002年から監督が長嶋さんから元四番打者原さんに交代。時の流れを感じずには要られない。タイガースも監督交代し、意識改革されたせいか開幕戦をとられた。巨人ファンとしては、悔しかったが「張り合いあるなあ」とも感じた。最初は取られても、やってくれると信じていた。4月中旬、原巨人は長嶋さんの時には使わなかった選手をぞくぞくと起用するなど、「緻密な野球」で連敗を抜け出した。ゴールデンウィーク中は、8年ぶりの8連勝を記録。うれしかった・・・。やっぱりトップがかわるっていいことかもしれない。現在、巨人は阪神に0.5ゲームさに詰め寄られているが首位を走っている、このままいってくれればと願う。
 巨人ファンでありつづけたい理由・・。職場の友人が同じファンだから。この人と僕、7年前の春同期として今の職場に入った。知り合った頃は、交わす言葉も少なかったが「巨人ファンなんだけど」と聞いて「そうなんだー」と感じ、その夜からの試合から興味をますます持ってみるようになった。勝った試合の翌日は、朝出勤すると「勝ったねえ」と話し掛けてくる。負けた試合の翌日は、「どうして負けたんだろうねえ」と話し掛けてくる。それがうれしくてたまらない。ある金曜日の午後、この人がなげる球ををはじめてみた。体の横からの投球で速くいい球だった。「うぃー」と思った。友人と僕の絆は、巨人がきっかけで強くなった。

姉のこと

自分は、トップを独走する人より何とか1位になろうとしている人、企業が好きだ。自動車メーカーマツダがそうだ。車好きの自分、週末になると、展示会をはしごしていたが最後は、マツダで落ち着いていた。某メーカーもいいところあるが名前でお客が飛びついている感じがいやだ。その点、マツダは業界トップの企業に追いつこう、客層を広げようと企画、商品、セールスでこつこつがんばっている。自分は、障害持っているので学校へは親の送迎が不可欠。そこにマツダの存在。小学部通学しはじめたときから、もう18年も助手席座っている。でもいまだに座ったことがないのが「RX−7」。車を買い換えるたび、念願してきたが、まだ乗ったことがない。このメーカーを支持する理由。「販売主任」として、姉が奮闘しているからかもしれない。自分と姉は6歳はなれている。
  自分の育成日記によると、「今度産まれてくる子、男の子かなあ」と、当時幼稚園児だった姉貴は予想していたという。姉の予想は当たっていたものの、「脳性麻痺」という障害がついてきた。運動機能をつかさどる細胞がうまれつき死んでいて、足があまり動かない。1850g。産まれたての自分の体重だ。障害としては、スタンダードだろう。障害持っていることが判明したのは一歳半。首が据わらないことを不思議に思って両親が病院に連れていったら・・・・・。僕の場合、着替え、トイレなど身辺のことが一人では出来ず、親を抱え込む形に。
 そんな折、小学校6年だった姉貴が遠足に出かけた。迎えは母が行く予定だったらしい。しかし、僕の面倒を見ていて、いけず。姉貴、なきながら帰宅。この光景を目の当たりにした僕は、「親を一人占めしてごめん」、「歩ければこんな事なかったかも」と幼心に思っていた。この後も兄弟の間でそう思わせる事柄起きるが、このときほど強く思ったことはない。気づけば、率先して車椅子を押していてくれた。「この子、私の弟よ」と、心の中でいっているようだった。もし、これが僕と姉、反対の立場だったらとふと思った。でも、やっぱり「この子、私の弟よ」と、いっていると思う。デパートにも一緒にいった。♪お買い物、お買い物♪妙にうれしかった。友達もそうだけど、姉貴とも自然な会話をしていた。
 過去形ばかり続くが、姉貴はセールス続け、さまざまなお客さんに夢をつかませるお手伝い中・・。縁あって僕が勤めている職場(障害者施設)に公用車として、これまでに3台納めている。日記に書いたトラックもそんな一台。納車や用があって、施設に来た時は、「こんにちはー」と同僚に同じ目線で声をかけている。まさしく、姉である。僕は微笑ましく、みている。仕事をしている姉貴はすてきだ。
 そんな姉。2001年4月、6年付き合った彼と結婚した。僕も背広を着て式に出席。姉の明るい人柄に多くの友人が披露宴を盛り上げる。会場は、東京の花屋に勤めているという姉の友人が総合的に彩ってくれて華やかだった。僕は意外と平然に料理を食べていた。キャンドルサービスが始まるまでは・・・・。サービスが始まって、自分が座っているテーブルに来た時「混む、ありがとう」といわれた。次の瞬間「こちらこそ、ありがとう」という前に目から大洪水、いとこが用意してくれたハンカチに埋もれた。涙もろい混むである。姉貴夫婦には、これからも明るい家庭を築いてもらいたい。

「目標にできる人に」。乙武さんの番組を見て

 1999年。
   1人の障害者がベストセラー本を書いた。
 乙武洋匡さん。買って読んだ。半年後に。読んでいるうちに引き込まれていった。それでも、どこか「雲の上の人」という感じがしていた。それが、2001年-1月22日夜9時から日本テレビ系列で放送された乙武さんのドキュメンタリー、スーパーテレビ特別版「独占・誰も知らない乙武洋匡24歳の素顔」を見て、彼への捕らえ方が変わりつつある。「目標にできる人に」。同じく障害を持つものとして。
 その1つに、「五体不満足執筆後のキャスター活動」。彼が、テレビ朝日のキャスターをつとめることを友達からのメールで知り、番組を見るまで、「TBSやめたのになぜ」という疑問がわいていた。だが、ドキュメンタリーのなかで、障害者に対する同情をなくすために書いた本が執筆後売れ行き順調でかえって同情を呼んだこと、「五体不満足を書いた乙武さん」から脱皮して1人の人間としてあゆんでいく、見てもらうためにスポーツライター・キャスター活動をし始めたことを知り、今まであった「本書いたからなあ」という先入観は消えた。
 実際に無名の高校生サッカー選手やシドニーオリンピック柔道金メダリスト、井上選手といったスポーツ選手に自分の観点で取材、高校生には1日かけて。井上選手には1時間でだいたいのこと聞き出す場面を尊敬の目で見ていた。同時に同じ物書きとして、感心。取材後、乙武さんが選手相手にけんかに勝つために編み出した低い姿勢からの技を披露。それを見て、取っ組み合いをしたことがない僕はうらやましく、強さを感じた。
 「同情はやめてくれ」。誰でも言える。その先、乙武さんのように障害者の枠にはまっているようで、はまらない人になるのには時間が必要だ。僕も、枠にはまらない人になるために脱皮を続けているが、まだまだだ。これからもパソコンと文章を駆使してちょっとずつ成長していきたい。

BIBLOはこれからも相棒であり、彼女だ

皆さん、こんにちは。皆さんがパーソナルコンピュータにであったのはいつなんだろう・・・・・。
 僕は、1998年6月にパソコンを買った、FMV-BIBLO1998夏モデル。それまでは、「パソコンなんて、どこが面白いんだろう」。windowsに反抗するように日本語ワードプロセッサ(通称ワープロ)で友達とコミュニケーションはかったり、仕事していた。マシンが届き、ワープロとの違いを痛感。パソコン単体で扱えるソフトの多さに驚き、最初は軍通信用に開発されたというインターネットもやれると知り、プロバイダーと契約。ネットライフへと1歩踏み出した。ネット開通して,初めてアクセスしたのは「日本経済新聞」のサイトだった。瞬時に最新のニュースが把握できるため、今でも必ず見ている。そのサイトのなかにあったランキング方式でサイトを紹介するコーナー、よかったなあ。 そこで、サイト間を飛ぶ「リンク」という言葉を身を持って覚えたような気がする。今でもある模様だ。大人のリンク帝国にはまったことも。青春のいたりだ。今では、興味を持ったことを調べたり掲示板に書き込むことが多い。
 でも、インターネットといえば、Eメール。パソコンの前に最初に僕を釘付けにしたのは、小学生時代の同級生で東京で派遣社員として、働いていた人。その人は女性で、。毎日のように東京での出来事が送られてきて新鮮だった。趣味がモータースポーツと判明。話がはずんだ。しかし、入籍を機にこなくなった。そのあと、社会に出て知り合った友人とメールやり取りして、見聞を広げていった。高校時代からの友人、M嬢からのメールが届いたのは、1999年の春。うれしかった・・・。M嬢は、知り合ったころから実にさっぱりして魅力があった。クラスでは隣りの席同士。登校すると、いつも本読んでいたのが、印象的。。そんな2人最初は短いメールの連続だったが、お互い自然な語らいに徐々に本音を言い合うようになった。
 このサイトを立ち上げようかとはなしに出たのは、2000年に後輩が作ったサイトをみせられ「私たちも」とメールで「プロジェクトX」。ソフトを探しているうちにこのGoliveと出会い、作りはじめた。構築しはじめるとそれまで見る楽しみしかなかったサイトのしくみが手に取るようにわかって面白かった。だが、サイト構築中の2001年5月僕の不注意でwindowsを飛ばしてしまった。パソコンを持つものとして悲しかった。記憶を無くしたBIBLO工場から戻ってきてからの数ヶ月間は、オープンに向けて必死に再構築。彼女は見守っていた。そして無事2001年10月28日M嬢と練り上げたサイトがオープンできた、BIBLOでたちあげることができた。ふー。BIBLOはこれからも相棒であり、彼女だ。

SPEED

 何から、書こうかな。解散から1年たってしまったがSPEED、そうあの沖縄出身の女性4人グループについて語ろうかな。解散発表は半年前夜のニュースで知った。
  「2000年3月31日で解散します」。
それを聞いてから、「なんで、どうして」。「人気のあるグループは、やっぱり絶頂での解散??」。自分の中で自問自答の日々。3月31日を迎えるのに抵抗があった。だが、その日はやってきた。そして、彼女たちのラストステージとなる音楽番組が3時間の生放送で始まった。歌を歌い終われば解散だというのに「♪学研のおばちゃんまだかなあ」状態で、妙に待ち遠しかった。午後9時過ぎ、彼女たちの出番がきた。僕は、涙流さず見守った。彼女らの新たな出発だから・・・・・。番組終了後、テレビの電源が落とされ、「明日から彼女たちのハーモニー聴けないのか」と思ったら涙がほろり。
 SPEED、結成1996年。当時は、社会人として1年目で奮闘していた。「曲には思い出が付き物」とよく言うが、そのとおりだ。急にいいと思い始めたのは、「white love」が街中に流れていた1997年秋・・。僕は、ちょうどそのころ、同じ年の夏からはきはきしているところと笑顔に惹かれていた同い年の女性に以前から「彼いないんだ」と聞いていたため、その言葉を信じ海外、夕暮れ迫る空港で思いを告白。かえってきたことばが、「彼氏ができた」。
 1ヶ月落ち込み。
 そんな時、聞こえてきたのが恋する女性が男性に対する思いを歌ったこの曲だった。曲聴いて「スピードいい。彼女の心境今・・・」。オーバーラップさせていた。その年の年末、彼女と会う機会があり、クリスマスプレゼント渡しながら、「white loveって今の心境じゃない????」と、このこと伝えるとアカペラで歌い出し途中からほわーっと笑顔。あの笑顔よかったなあ。今でも覚えている・・・・・・。
 そんなこんなで、SPEEDファンになった。アルバム買ったりSPEED関連のメールマガジンを発行人の都合で廃刊になるまで読みつづけた。音楽的批評が多かったが違う視点からで美味だった。が、彼女たちは、もうそれぞれの道を歩き出している。ちなみに自分より年下のグループのファンになったのはSPEEDがはじめて。同い年の女性に恋焦がれたのも彼女がはじめて。