執行部として
プロローグ
大学の最終学年?? であるところの4年生になった。昨年12月の引継ぎからどの役職になるかは大体決まっていたが、発表されるまではドキドキものだった。
私の役職は技術、譜面管理局局長。楽譜を書くのは得意だったが、管理するのは苦手だった。今でも私の部屋は、管理されていない楽譜が、所狭しと散乱している。
先輩方が引退した12月の定演後は、もう私達が主になって団を運営していく事になる。とりあえずは、適材適所に割り振られた幹部と呼ばれるメンバー(もちろん新4年生全員)で、今年一年どのように行事をこなし運営を進めていくかを毎日のように話し合った。夜遅くなることが当たり前。明け方近くまで話していたこともある。
私は徹夜が出来ない。徹夜した次の日は一日気持ちが悪くなってしまうのだ。主将、副将、財務、統制の四役は、それこそ寝ずに話し合ったことだろう。私は、「マメ、寝るなよ。」といわれながら、得意の薄目を開けての仮眠を取っていた。
この辛い話し合いの日々を経て、いよいよ私達の時代が幕を開けた。
春合宿
3月の終わりに春の合宿を千葉県の九十九里の民宿で行った。この合宿には、4月から新一年生になるメンバーも何人か参加していた。このことは一年生のときにも触れたと思う。
春合宿で、恒例となっているのが団内のアンサンブルコンテストだ。東京都の予選が5月末から6月頭に行われるので、それに出場する団の代表の選考会も兼ねていた。
私は、全員参加をモットーにしていたので、初心者も構わずに構成メンバーに入れた。吹奏楽コンクールでは、とんでもない自由曲を吹かされるのだ。アンサンブルなんて・・・。
と言う事で、新入生には最初から辛い思いをさせたようだ。
このとき私達のクラリネットアンサンブルはドビュッシーの小組曲より「行列」「バレー」を演奏して、団内二位で都の予選に出場する事になった。
一位は、パーカッションアンサンブルだった。
アンサンブルコンテスト
6月の始めに、江東公会堂というところで、アンサンブルコンテスト東京大会が開かれた。A大学吹奏楽団からは、私達のクラリネットアンサンブルと、パーカッションアンサンブルの二団体が出場した。ここで演奏した曲はゴールドマン作曲の「スケルツォ」だった。ドビュッシーは、クラリネットで吹くと、アラビア風で曲想に合わないとコーチの先生に指摘された為だ。
チューニングルームで練習したあと、全員の意識を高める為、体育会系の選手がコートでやるように、円陣を組んで目を瞑り、「今まで頑張ってきたんだ。その成果を発揮しよう。のびのびと楽しもう。」と、全員に暗示をかけるように、話をした。中には、「何言ってるんだ、こいつは。」と思った者もいただろう。しかし、結果は銀賞。「途中のテンポの乱れが無かったら、もう一つ上にいけただろう。」という、先輩の身内びいきの感想を頂いた。講評にも、「多人数でのアンサンブルの将来を開く試金石。」という、ありがたいお言葉を頂いて、「エスクラとトップクラの音色が似ていて、まるで一本のクラで吹いているように錯覚した。」とも書かれていた。エスクラと、トップが掛け合いの部分があり、それをあたかも一本で吹いているように聞かせるということは、なかなか難しい事だ。その言葉だけでも、他にまねのできないことを、やったという自負を起こさせてくた。このことが、私の爆走にいっそうの拍車をかけた。
一緒に出場したパーカッションアンサンブルは、審査員受けがよくなかったのか、銅賞に終わってしまった。パーカッションのリーダーは、私と仲の良いやつだったので、私も気まずい思いをした。同じ団の仲間に、勝ち負けなんか無いから、コンテスト終了後は、出場者プラス、団のメンバーが一緒になって朝まで騒いでいたような記憶がある。本番は日曜日だったので、次の日の月曜の授業は、受けていない。お父さん、お母さん、ごめんなさい。
サマーコンサートと夏合宿
アンコンのあと、いよいよサマーコンサートとコンクールの課題曲、自由曲の練習に入った。サマーコンサートでは、課題曲4曲のうち2曲(イリュージョンとマーチ青空の下で)を演奏する事になり、サマーコンサート終了後にコンクール本番にどちらを演奏するか決めることにした。
サマーコンサートは私の地元栃木県で、宇都宮市文化会館で行うことにした。同期に栃木県出身が4名もいたからだ。故郷に錦を飾るではないが、地元出身者が多いほうが、お客さんがたくさん入ると考えての事だった。勿論、栃木県出身のO.B.諸氏や同窓会の先輩方に多大なる苦労をかけたのは、言うまでも無い。学生の考えなど、浅はかに過ぎないのだ。先輩方、本当にありがとう御座いました。昔の事ですが、ここで御礼を申し上げます。
奇しくも、今年のA大学吹奏楽団のサマーコンサートが、やはり宇都宮で開催された。私も微力ながら、お手伝いはしたが、私たちのときに先輩方が動いてくださった、10分の1も動けてはいなかったと思う。
また、2003年のA大学サマーコンサートに来てくださった皆様にここで御礼を申し上げます。
夏合宿初日は、1981年8月2日(日)に行うサマーコンサートの準備でてんてこ舞いだった。宿舎は塩原の常盤何とかというホテルだ。学生バンドの合宿に良く使わせてくれたと思うほど、立派なホテルだった。今も、塩原の温泉街を通るたびに、そのホテルを見かけ、そのころを思い出す。練習には、大広間を開放してくれた。1週間ほど合宿をしたのだが、他のお客さんは「とんだところへ泊まってしまった。」と思ったことだろう。
私たちにしてみれば、露天風呂はあるし、ゲーム機はあるし。とてもよい環境???の、合宿所だった。
2日目の朝、ホテルを出発して、9時には宇都宮市文化会館に入ったと思う。楽器運搬トラックの先導を私がやっていて、高速を降りてから道を間違えて、引き返すと言うエピソードもあった。同期のやつに「おまえ、栃木出身だろう。」と言われ、「宇都宮まで、高速では来た事無いもの。」と反論したのを覚えている。
ホールに着くと、何所の団体でも同じことだと思うが、楽器の搬入、楽屋の設定、舞台の準備にあわただしかった。ロビーの受付は、O.(B.G.)諸氏や私たちの友人にお願いした。
プログラムは、一部、「ペリ」のファンファーレ、フローレンス行進曲(軽い乗りのほう)、課題曲から「イリュージョン」「青空の下で」、舞踏組曲「ロデオ」よりカウボーイの休日。2部、ステージドリル「ブルーインパルス81」。3部、バラード・フォー・バンド、マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム(ユーフォニアム三浦先生ソロ)、インディアン・サマー(サキソフォン故前澤先生ソロ)、マスター・ブラスター、リードの第二組曲。
このコンサートで、残念ながら私は錦を飾る事は出来ませんでした。クラリネットのトップとしては、ミスが多すぎた。
コンサート終了後、レセプションを行い、合宿所に着いたのは夜も遅く、楽器の搬入を次の日の朝にまわすことにした。
合宿は、滞りなく終了した。課題曲も「青空の下で」に決定。ここで特筆すべき事は、合宿の最中に、塩原のホールを借りてホール練習を行ったことだ。塩原のホールは、温泉街の途中の山の上にあった。こじんまりとしているが、とてもよいホールのように思えた。最近は、前の道がひろがりバイパスになり、交通量も増えたようだ。
コンクール総記
合宿から帰ると、コンクールシーズン真っ盛りとなった。私たちのA大学吹奏楽団は、東京都予選、本選と通過して、全国大会にこまを進めることになった。
私たちの目標。「皆に認められるような、良い演奏をしよう。」と言う目標を達成できつつある。次は、全国大会でそれを認めてもらうことだ。
全国大会は、大学、一般の部は福井県鯖江市で行われる。何しろ遠い。福井の民宿にお世話になり、近くのホールを練習場に借りて全国大会に備えた。魚介類がふんだんに出て、美味しかったのを覚えている。(何しに行った)
全国大会は、出場が一番。私たちの演奏が基準になる。「面白い。最高の演奏をしてやろうじゃないか。」と言う事で、一週間以上も前から朝7時音出しという練習を続けていた。出場が一番だと、朝9時半くらいの演奏になる。朝は肺に空気が良く入ってくれなくて、良い音が出ない。それを克服する為に、朝早くから練習をすることにしたのだ。
その甲斐あってか、良い演奏をすることが出来て金賞を頂いた。A大学2回目の全国大会金賞だ。
このときの演奏は、C.D.の紹介のページで紹介してあるC.D.で聞くことが出来ます。「私のミスを探せパート1」。
全国大会金賞受賞と言うのは、後になってありがたい効果をもたらす。依頼演奏が増えるのだ。ありがたいことに、音楽教室などの話も舞い込む。勿論、12月に行っている、定期演奏会の集客も望めるのだ。
結局は、自分達の努力、コーチの先生方の尽力、O.(B.G.)諸氏の後援、運などが、全てまとまった結果だと思う。このうちどれかが欠けても、金賞と言う幸運は望めなかっただろう。
1981年12月5日(土)A大学第17回定期演奏会、曲目。一部、「木陰の散歩道」、狂詩曲「ノヴェナ」、南の丘組曲(本邦初演)。二部、ステージドリル「ブルーインパルス81U」。3部、「ウォーターシップダウンのうさぎたち」よりブライト・アイズ、ナイスショット、リードの第二組曲、「ロデオ」よりカウボーイの休日。
卒業後パートTへ。
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