コンクールなど
1.全国大会
僕たちの吹奏楽団は無事東京都の予選を通り本選へと進んだ。本選は中野にある普門館で行われた。1年のときだったので良く分からないうちに終わってしまった。都大会も通り全国へこまを進めた。
全国大会も普門館だった。
朝9時に団室に集合。ウォームアップをして、ティップス、コラールの2つのバンド教本のような物を吹き音を合わせる。その後課題曲、自由曲をあわせた。
「今のが本番だったら、完全にアウトだな。」とコーチの先生に言われ、真っ青になる。
「ここまできたら、まな板の上の鯉だ。今までの練習の成果を全てぶつけて来い。」と激励され、いったん解散。
「会場に着くまでに、怪我するなよ。」とO.B.に注意される。
1.2年生でトラックに楽器を積み込むと、僕たちは徒歩で武蔵境駅へと向かう。僕の楽器は小さいのでトラックには積んでもらえない。電車に忘れて本番吹けなくならないように気をつけなくては。
中央線の荻窪で地下鉄丸の内線に乗り換え、中野坂上でまた乗り換える。方南町という駅から歩いて10分ぐらいで普門館についた。馬鹿でかい建物だ。5000人という収容人数はホールとしては日本一かも・・・。
普門館に着くと、父と母が聞きに来ていた。大学1年次に全国大会出場と言う事で、息子の晴れの舞台を見るためにわざわざ栃木から出てきたのだ。方南町には父の妹の旦那の兄(漫才のようだ)が住んでいるので、午前中あいさつに寄ったといっていた。
このときS原先生に父があいさつをしたいというので「S原先生、僕の両親です。」と言うと
「おー、マメちゃんのご両親ですか。将来有望な1年生ですよ。頑張ってますよ。」と言ってくれた。
もちろん社交辞令に過ぎないのだが、その気になってしまい本番が調子良かったのは言うまでもない。豚もおだてりゃ・・・というやつだ。
今でもS原先生がテレビで指揮をしていると「あのひげの先生だね。」と母が言う。
(今は亡きS原先生。たくさんの想い出をありがとうございました。ありがとうございました。)
また、私に物を頼むときは最初おだてる。気持ちよくさせといて頼みごとをする。そういう時は必ず「いいよ。」「ああ、やっておくよ。」と返事をしてしまう。あとで引き受けなければ良かったと悔やむが、そのときはもう後の祭りだ。私の性格を知っている人は皆その手で来る。私としては、頼まれるうちが華と思いなるべく断わらないようにしている。もちろん、絶対に出来ないと判断すれば断わる事もあるが、人に出来る事は自分にも出来ると思っているので大抵の事は引き受けてしまう。
チューニングルームに入り音をあわせ、課題曲と自由曲の出だしを合わせる。
「よーし、いいぞこの調子で金賞貰って来い。」と先輩たちに見送られて舞台袖に向かう。
舞台袖では前の出場団体の演奏を聴くことになる。ここで聴くとどんな団体でも上手に聞こえる。それがプレッシャーになって、本番でいつもの調子が出ないメンバーもいる。僕はいつもマイペースなのでそんな事はなかった。
結果は金賞。先輩たちは流石に感無量だったと思う。3年連続出場ではじめての金賞。A大学吹奏楽団のホームページの「これまでの歩み」を見ていただければ解かると思うが、東京都大会をクリアすることがとても難しい。これをクリアすることが僕たちの課題だった。東京のレベルは高く、通ったそのままの演奏を全国でも出来れば全国金間違いなしとコーチの先生方にも言われていた。
コンクールが終わり、電車で武蔵境に戻る。学校に戻りトラックから楽器を降ろし、練習場に運び入れる。ミーティングをして解散。その後がすごい。
武蔵境の駅の近くに大天狗という居酒屋がある。そこで打ち上げになる。2年次と3年次の東京都大会では、悲しく悔しい酒を飲んだ。しかしこのときは違う。明け方近くまで騒いでいた。次の日は月曜日で授業がある。どうしたかは今となっては覚えていない。
A大学は4年生が執行部だ。全ての権限は4年生にある。コンクールが終わるとすぐに定期演奏会の練習に入った。このときのメインはチャイコフスキー作曲幻想序曲「ロミオとジュリエット」だった。市販されている楽譜に出だしのクラリネットとファゴットの部分を書き足し全曲バージョンにしたのを覚えている。
T広先輩の指揮がとてもかっこよかった。北海道出身のT広先輩。お元気だろうか。
全国大会で金賞を取ったおかげで、依頼演奏が増え日曜日ごとに街頭演奏やパレードなどに出かけた。謝礼は団費に組み込まれ、現地までの足代は自己負担だった。お弁当を出してもらえる依頼演奏はとてもありがたかった。
クラリネットは屋外の演奏には向いていない。音も小さいし、直射日光を当てると管体にヒビが入ったりする。僕は中学の時に買ってもらったヤマハのYCL−32を野外演奏用に当てていた。大学の4年間、野外演奏用にしたためか黒かった管体が色あせて茶色くなってしまった。今は木目の鮮やかなクラリネットもあるようだが、僕の場合は期せずしてそういう楽器を使う事になったようだ。
「あなたのクラリネットは変わった色ですね。特注品ですか。」といわれた事もある。そのくらいうす茶色がかっていた。
5RVというマウスピースに、グロタンのDカットの4番というセッティングでゴーゴー吹いた。現在はグロタンのDカットという物は見当たらないが、ガイアの50と良く似ていた。ガイアの50のほうが品の良い音がする。リガチャーはボナードの順締め(リード側にネジの付いているもの)を使っていた。この頃は逆締めというものはまだ作られていなかったと思う。3,4年生になった頃ボナードの逆締めやバンドレンのブラックマスターなどの逆締めが出てきた。レッスンに行って逆締めのリガチャーについてS木先生にお聞きしたら、「改良されて出てきたのだから、そのほうが良いのだろうねぇ。」と言っておられた。そういうS木先生は、クランポンの普通のリガチャーで吹いておられたが。
2.バンドフェアー
大学2年のときの昭和54年6月13日(水)、全日本学生吹奏楽連盟主催のバンドフェアーが大阪の厚生年金会館大ホールで開催された。東京都大学吹奏楽連盟(大吹連)は中部地区大吹連と合同で一部のポップスステージを担当した。曲目は、ティスト・オブ・ハニー、ベンジーのテーマ、キャラバン、ソング・オブ・スティービー・ワンダーの4曲。
本番の前に合同の合宿が伊勢若松の山の中にある青年の家で行われた。僕達の大学からは、僕と同じクラリネットの1年生の女の子Mと、同期のトロンボーンのIが参加した。
朝早く東京駅の銀の鈴に集合。銀の鈴と言うからぴかぴかの鈴を想像していたが、すでに色あせた大きな鈴がぶら下がっているだけだった。
学生はお金が無いので、東海道線の在来線を乗り継いでまずは名古屋に向かった。熱海、浜松で列車を乗り継ぎ、名古屋で名鉄に乗り換えて、伊勢若松に着いた時には辺りが暗くなっていた。暗くなってきて、小高い山の上にある宿舎まで歩いていった。本当にこの山の上に在るのか心細かった。
宿舎に着くともうくたくたで、腹もぺこぺこ。やっと夕食にありつけるかと思ったら、二年生の中から食事当番を出せと言う事でもめた。何とか食事を済ますと、参加者全員がホールに集まり自己紹介が始まった。
自己紹介が終わりかけた頃、どたどたとホールに入ってきたグループがあった。NH大学のメンバーだ。医療関係の大学なので、この日の講義が終わってから出発したそうだ。(講義が終わってからと言うのは本当のことだが、その他にも渋滞につかまり、オーバーヒートもして、混乱状態をぬけたと思ったらスピード違反でつかまったという、とんでもないアクシデントが重なったようだ。20年以上前の話なのでもうばらしても良いでしょう。)
何で私が他大学のメンバーの遅刻の理由を詳しく知っているか、不思議に思われるかもしれません。その理由についてはもうしばらくお待ち下さい。
次の日から午前中パート及び個人練習、午後から分奏、夜は合奏。と言うスケジュールで練習が始まった。パートリーダーはI大学3年のY先輩。副はやはりI大学3年N先輩とI教大3年のK先輩だった。私は二年で、チューニングメーターを持って音を合わせる係りをやらされた。2年のメンバーの中では、私が一番扱いやすかったのかもしれない。
私は、合宿初日から演奏会終了まで全体で一週間ほどの旅行だと思っていたが、その辺の記憶は定かではない。演奏会の日付は手元に残っているパンフレットに明記されている。合宿所があった駅も電車を乗り継いだ記憶も、20数年前のことでは在るが、良く覚えている。
分奏でも合奏でも木管の音合わせは僕の役目だった。A大学の仲間達とは全然違うタイプの音を出すメンバーもいて、チューニングがやりずらかった。練習は割りと和気藹々で、楽しかった。こういう練習もあるのかと思った。本番は何とか終わるでしょう、と言う感じ。執行隊と、音楽のリーダー達は一生懸命だったが、2年生(高専の5年生も含む)が、がっちりまとまってしまっていて、そのメンバーがアバウトな奴ばかりだったので、本番までアバウトで一部のステージが延びて2部以降のステージが巻きの状態になってしまった。「やったもん勝ち。」と言う事もここで覚えた。
当時の関係者の皆様に、ここで当時の2年生を代表して迷惑をお掛けした事をお詫びいたします。
今となっては、楽しい思い出の一つです。違う団体のメンバーと、混成のバンドを作って演奏する楽しさも、味わうことができた。
24人の木管楽器メンバーのうち11人が女性。今は女性の比率は多いが、やはり合同と言う事で女性の参加が少なかったのかもしれない。金管は男ばっかりで硬派の世界だったようだ。フルートのメンバーが、個性のある者ばかりだった。キャラバンのとき、自分で振り付けをして前に出て踊ったのもフルートパートの男2人だ。
演奏会当日の朝、大型バス2台に分乗して大阪に向かった。
大阪に着くと午前中各部ごとのリハーサルが行われ、お昼をはさんでの休憩になった。僕は仲良くなったフルートとクラリネットの同期の子達と大阪の町に買い物に出かけた。フルートの子が、サングラスが欲しいというので僕ともう一人のクラリネットの子で選んであげた。赤に近いピンクのサングラスだった。眼鏡屋さんで買ったのではなく、街頭に立っている回るめがね掛けのようなもの(眼鏡がたくさん刺さっている物)の中から選んだ。たいした値段ではなかった。
一部の集合時間までまだ間があったので、喫茶店に入りお茶を飲んだ。フルートの子はマリちゃん。クラリネットの子はモコちゃんといった。
演奏自体は4曲しかなかったので、すぐに終わってしまった。名残惜しいので一部なのにアンコールを勝手にやってしまい、時間が延びたのだ。勝手な連中の集まりだったので、最後は収集が付かなくなるのではないかと心配した。役員のほうから終了せよと言う命令が出なかったら、本当に一部だけであの演奏会が終わっていたような勢いだった。もう一曲、アンコールに用意した「マンハッタン・スカイライン」は演奏できなかったのが心残りだった。この曲は、その年のA大学の定期演奏会のアンコールに取り上げてもらった。
演奏会終了後、東京のメンバーは大型バスに乗り込み、夜通し走って東京に帰ってきた。東京駅前に明け方着いたのだと思うが、この記憶は定かではない。
コレを読んだ関係者の方がいたら、感想を私までメール、または掲示板への書き込みをお願いしたいです。23年前の事を良く覚えていると思いませんか。
「バンドフェアー」に関しては、実を言うと2人の記憶を合わせて書いています。前述のフルートのマリちゃんが私の奥さんなのです。
3.台湾(中華民国)への演奏旅行。
同じく2年の11月、A大学吹奏楽団が4年に一回行っている海外への演奏旅行が行われた。今年は台湾(中華民国)だ。
出発日時ははっきりと覚えていないが、11月26日に国父記念館という台湾(中華民国)最高の会場で最終のコンサートを行っているので、その一週間ほど前に出発したはずだ。
日本亜細亜航空のDC10で当時は羽田空港から飛び立ち、3時間ほどで台北の空港に着いた。僕達の宿舎はチェンタン青年の家(チェンタン青年活動中心)というところで、圓山大飯店という大きなホテルが目の前に見える場所にあった。11月とはいえ、暑かったのを覚えている。
もちろん食事は中華。特に朝はおかゆと中身の入っていない中華まん。ザー菜などを入れて食べるのだが、一週間滞在してもなじめなかった。
練習は日夜青年の家の食堂のようなところの椅子やテーブルを寄せて行った。滞在中に、高校や大学への訪問演奏会があるので、観光気分にはなれなかった。研修と称して、故宮博物館や台南の湖、蒋介石ゆかりの地なども回った。私は楽譜係だったので、編曲依頼していた楽譜の写譜が間に合わず(編曲者同行)、皆が見物しているときも宿舎に残って写譜をした。残った楽譜係の中で、最後の何枚かを誰が写譜するかのじゃんけんに勝ち、楽譜係の半数を残して圓山大飯店へ散歩がてら見物に行く事ができた。
国父記念館の演奏会では、同行の金管コーチM浦先生のソロによる「ナポリ」と木管コーチの故M澤先生のソロによる「アルトサキソフォンとバンドのためのコンツェルト」(ポール・クレストン作曲)も演奏した。
もちろん、パンフレットは中国語で書かれているため、漢字がある程度分かるくらいで、曲目簡介(多分曲目解説だと思う)も良く分からない始末。
G弦上之歌調(G線上のアリア)、亞美尼亞舞曲第一樂章(アルメニアンダンス第一楽章)、展覽會之披頭士(展覧会のビートルズ)などなんとなく分かるかな。
もう一つ。楽器屋さんの広告に「黒笛」(クラリネット)「長笛」(フルート)「沙克司」(サックス)「巴士」(バス)「伸縮喇叭」(トロンボーン)などが紹介されています。
国父記念館の演奏会終了後、打ち上げが行われた。台湾(中華民国)への演奏旅行全行程の打ち上げもかねていたので、盛大に行われた。どこかのホテルの大広間だったような気がする。料理はもちろん中華。七面鳥だかアヒルだかの丸焼きもあった。
4.茨城への演奏旅行
日立市への演奏旅行は、私が2年のときだと思っていたが、台湾(中華民国)と2回同じ年にあることはないので3年のときだろうか。招待演奏だったような気もするが・・・。3年のときは、静岡のどこかだったような気もする。
さて、日立市へは電車で行ったのはうっすらと記憶にある。そのときの資料が残っていないので、どんな演奏会だったか思い出せない。
「まだまだ続くよ。」と言いたいのですが、ネタ切れなので次のページ(執行部として)を先お読み下さい。
トップページに戻る。