ななつがたけ北 天文台 製作記
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  現在のところ、オーナーはふたりいます。オーナー1とオーナー2としておきます。
  このホームページはオーナー1がつくっています。


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メインオーナー (オーナー1)
  奈良部 英男 (ならぶ ひでお)
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1957年生まれ  栃木県在住

コンピュータネットワークをつくる零細企業の経営者。システムインテグレーター

中学生の時、星に興味を持ち、空振りに終わった「ジャコビニ流星群」を観測
高校時代は天文部に所属し、学校にあった五藤光学の15cm屈折赤道儀を使いまくった
   誤報に終わった「誤報です(コホーテク)彗星」を観測
   あの頃は栃木の星空もきれいでした
東京都心の大学に進学しても星を見続けたくて、「天文研究部」に入部
この大学が所属していた「大学天文連盟」に主な活動の場を置く
   この頃の仲間たちが、現在の「天文業界」を仕切っています
大学卒業後、非常につまらない(将来の日本を悪くする)職種の地方公務員となる
   この頃多忙のため、しばらく星のことは忘れていました
11年後、あまりにもひどいことをやっているので愛想を尽かして地方公務員を退職
生き延びるために仕方なく、安月給のコンピュータ関係の中小企業に就職
   コンピュータネットワークを担当(勝手に自分でこれをやった)
   CNE−J取得
     * 今は何の役にも立たないが、当時は取得に最低100万円かかった
        そんな昔からコンピュータネットワークをやっているという証拠にはなる
就職した会社が実質的に倒産
   それを機に、複数の、コンピュータ関連企業の契約(非常勤)社員となる
数年後、自分の会社を設立 社名「リンクス」 ・・・ そう、このホームページの名前
   ただし、コンピュータネットワークの「Link」の意味もあります
ここ数年、偶然にも会社の利益がでて、得たお金で天文台を建設


趣味 ・・・ 自動車(のメカニズム) 若い頃は、ホンダに入ってF1マシンを創りたかった
    ・・・ 星(を肉眼で見ること)  若い頃は、プラネタリウムで生解説をしたかった
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中年おじさんの主張
   LRGB合成やコンポジットした写真は「写真」と呼んではいけない。「作品」と呼んでください
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世の中、モノクロ冷却CCDでLRGB合成が全盛ですが、私はそれをやる気はありません。
見た目にきれいな作品を作りたい人がやればいいもので、私はそれを見せてもらうだけで十分です。アマチュアが撮った、美しい「天体写真のようなもの」を見るのは興味深いものがあります。がんばって作品を仕上げる手間と作者の情熱が見られるのは、星仲間としてうれしいことで「よくやった!」とほめてあげたい気持ちになります。
しかしながら、私の感覚ではそれは「写真」ではありません。時間の流れの中の一瞬をありのままに切り取るのが写真のはずです。LRGB合成というのは、インチキUFO写真と同じで、違う時刻に写された複数の写真を合成して1枚にしています。これを「写真」と言っていいのでしょうか。画像処理のやりすぎで、インチキUFO写真のほうがまだマシなくらいの通称「天体写真」が天文雑誌に載っています。
宇宙の時間の流れで、数時間というのが一瞬なのか、長い時間なのかは判断の分かれるところですが、2006年7月号だったかの「月刊天文」の表紙に73P/シュワスマン・ワハマン彗星のRGB合成写真がありました。こんなものを絶対に人に見せてはいけない!という悪い見本です。あれは一目でわかる3つの独立した「長い時間」をひとつに合成したものです。それを「写真」と認めるなら、現実にはあり得ない合成写真が新聞の1面を大きく飾ってもいいことになります。それが天文雑誌の表紙になってしまうというのは、今のLRGB合成全盛時代が、それを写真として普通に受け入れてしまうという、間違った感覚を多くの天文ファンにも雑誌の編集者にも植え付けてしまっています。
RGB合成や複数枚をコンポジットしたものは「作品」と呼び、「写真」とは別物として扱うべきでしょう。ただ、惑星を動画で撮り、1000枚クラスのコンポジットをするのは意味のあることだとは思います。
将来、LRGB合成をやる意味がなくなる高性能カラーCCDが世に出た場合、「あれは何だったんだ!」と思うのではないでしょうか。
光害のあるところではそれでもLRGB合成(もしくはSAO合成)でしょうが、「邪道」という認識に変わるでしょう。
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オーナー2
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  黒木嘉典(くろきよしふみ 
 1966年生まれ 男性
 今は公務員
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小学3年生の時に九州の宮崎で林業をしていた祖父に連れられて仕事場兼山小屋に宿泊。そこで初めて満天の星空の洗礼を受け、星の美しさや星座のおもしろさにはまりました。すぐに意気投合したクラスの友人と星の本を読み漁り4人でにわか天文同好会を設立。この時代に使っていたのはエイコー製の反射望遠鏡でした。小学生の小さな体で望遠鏡を運ぶのは大変でしたが、親の協力を得てすぐそばの小学校の校庭でよく見ていました。初めて見た時に叫び声を上げるほど感動したのがペルセウス座の二重星団でした。
天体写真への挑戦は皆既月食に始まりました。父のカメラと望遠レンズを借りて「赤銅色」の月が撮れた時は本当にうれしかった。
それから中学時代、高校時代と星を眺めたり、天体写真に悪戦苦闘したり(挫折も味わいました)と天体趣味にドップリと首まで漬かっていましたが、ハレー彗星を見終わったとたんに放心状態、そして冬眠期に入ります。
久々の本格的復活は15年後、関東圏に居を移してからでした。天文雑誌を買ってみると掲載されている天体写真の様変わりに度胆を抜かれました。「これがアマチュアの撮った写真???」「パロマの写真集と一緒じゃん!」信じられませんでした。
これに刺激され最初は「天体写真を!」と考えましたが、実際に肉眼で見る光の儚さに惹かれ、今では眼視中心になっています。
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<おじさまの主張>
「原点に回帰して微光星の煌めきと儚い星雲の影にロマンを求めてみませんか」

天体写真は一枚の写真を何人かで見ることで同時に美しさを感じ、感動を共有することができます。実際には人間の目では捕らえられない波長の光さえも画像化することが可能です。これはとてもすばらしいことで最近の天文雑誌を飾っている写真の美しさには目を見張るものがあります。
でもそこに私は星本来の光の持つ儚さやそれに由来する美しさを感じることができませんでした。揺らいで見える星の光は大気の存在を感じさせますし、ある瞬間には見え次の瞬間には見えなくなる微光星の瞬きには無常を感じます。生の光を自分の目で感じることでいろいろな想像がふくらみます。その景色は私一人のこの瞬間のものであり他の人が同じ光を捕らえ感じることは不可能です。
日本の天文雑誌は、そのインパクトの強さのためか商業上の理由があるのか、振り子が天体写真の方に振れすぎているような感じがします。もう一度自前の網膜を使って星の光を捕らえてみませんか。生の光にはそれしか持ち得ないすばらしい魅力があります。古の昔、砂漠や原野で満天の星空を眺め物語をしていた頃の自然に対する謙虚さと畏敬の念を思い出しても良いのではないでしょうか。原点に戻っても良い時期かもしれません。    ? ? ?
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