NOTE


  文/田高 孝

 ミッシェル・フーコーについての解題
「知の考古学」は、内側からも外側からも経験されたことを、内側からも外側からも書いたものである。
「監獄の誕生」は、隠喩というリンゴを、二つに切って、背中合わせに、くっ付けたものである。
ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」は、堀込庸三のオーソドックスな歴史学の方法論と矛盾してるとは思わない。堀込庸三の言う「意味連関」(私風に言うと、「一致」)を、フーコーも踏襲してると思う。あえて言うなら、フーコーの一致は、3倍になっているから、一致という人間性を踏み外しているように見えるのだろう。しかし、現実が、人間性である理由もないし、ましてや、歴史が人間性の反映である理由もないのだから、フーコーのこの挑戦は、完全な歴史学の誕生として、歓迎すべきと思う。フーコーは、一致を使って、一致を超えたのである。フーコーは、現実が、人間でないことを、知ってたし、それを、証明してくれた最初の歴史家と思う。その方法論は、部分を使って、全体を描くという量子力学のような方法論だった。部分の完全性というフーコーの到達地点については、今後の研究が待たれる。しかも、フーコーの完全性は、開かれている。すなわち、部分なのだ。同時に、解かる事だけ解かると言う知的誠実さでもある。フーコーの「3つの解釈」と私が呼ぶものについては、別の時に考えてみたい。
話は、変わり、ジャン・スタロビンスキーの「ルソー・透明と障害」について
この本の核心は、分裂病を、パワー・トリップと見ることにある。
しかし、分裂病の中には、無意識に出会う貴重な経験があることを、スタロビンスキーは、見落としている。医者の遊びは、余り賛成できない。あのレインですら、分裂病を、トリップといってしまった。この問題については、ユングが詳しいと思われる。そして、ユングとフロイトの永遠の戦いが、今、始まっている。一生涯の分裂病か、フロイトのセックス思想か、の戦いである。しかし、分裂病の中には、無意識という宝があるのだ。フロイトのセックス思想なんて、結論のすり替えではないだろうか? 分裂病の結論を、セックスだと思う必要はないと思う。これは、私自身のすり替えだろうか? 私にとって、フロイトは、未知であり、ユングは、既知である。私にとって、フロイトは、何か遠いものである。それが何であるのか、は解からない。
話は、戻り、ミッシェル・フーコー、レヴィ=ストロース、ジャック・デリダなどの、いわゆる構造主義は、ユング派と考えていいと思う。無意識を、意識化すると、治癒が起こるというフロイトの神経症治療は、無意識は、意識されない所にあるというユング派の意見によって、補われた、と言っていいだろう。 構造主義の最大の貢献と思う。(デリダは、いささか名前を言い過ぎるが、)しかし、まあ、神経症治療なんて、俺に関係ないといっていいのではなかろうか? 神経症と分裂症の関係は、或いは、ユングとフロイトとの関係は、もう少し複雑と考えられるので、疑問点を取っておこう。
再び、話は戻り、スタロビンスキーについて。

分裂症は、知覚の病であり、神経症は、思考の病であることを、教えてくれた。故に、分裂症は、幼児的エロスの世界であり、神経症は、大人の世界なのだろう。もっとも、子供のときに、大人であった人も居ると思う。二元的思考で、私は整理しすぎているだろうか?

少し話は飛ぶが、ルネ・ジラールが、ジル・ドールーズに噛み付く理由が、解からない。
ルネ・ジラールほど、潔癖な思想家が、ドールーズほど猥雑な思想家に、かかわる必要はないと思う。ドールーズの言う無意識の生産は、ユングの悪しき遺産であるに過ぎない。ユング本来の無意識の純粋な体験に、留まっていたい私にとって、それは、問題にならない。これは、余談だが。
無意識の生産は、コンプレックスの生産であり、人間にとって自然なものだが、悪戯に挑むと、取り返しの付かないものになるような気がする。封印をいつ解いたらいいかは、誰にもわからない。ユングの純粋な無意識体験とフロイトの純粋な知的魅力は、只、並べておけばいい、と言っておきたい。両者は、今のところ相和さない。おそらく、無意識は、一つじゃないのだろう。私は、一つにしたいのだろう。フロイトが言い出した無意識と、ユングが経験した無意識は、違うものに思える。
話の角度を少し変える。ユングとフィレンチィが、取ったフロイトに対する最後の態度の違いについて。ユングは、最後まで、フロイトを恨まなかった。フィレンチィは、最後に、フロイトを、恨んだ。ユングは、一生涯分裂病に留まった。フロイトを、恨むのは、敗北を意味したからだろう。そして、治らなかった。フィレンチィは、憎しみをフロイトに向けた。しかし、フィレンチィもまた、治ったとはいえない。晩年のフィレンチィの傑作「臨床日記」は、見事な多重人核分裂の記述だった。自ら、分裂症へ挑んだかのような傑作だった。フロイト派の全体は、人間模様の見事な標本と思う。父親混乱の旅を仕掛けたフロイト思想の難しさと思う。
粗雑な言い方を言えば、父親混乱の旅がフロイトであり、母親混乱の旅がユングだったのでは、ないだろうか?神経症と分裂症の永遠の闘いである。そして、私は、敢えて、セックス抜きのフロイト思想家になりたい。ユングの停滞からフロイトの前進へ興味が向かっている。俗に言う、フロイトのセックス思想には、興味がない。純粋に、私は、フロイト思想を面白いと思っている。セックス思想を、私は、否定できるだろうか? 

最後に、余談を付け加えると、多重人核分裂の研究は、今日アメリカで進んでいる。「シビル」とか、「ビリー・ミリガン」と言った小説に描かれている。
再び、「知の考古学」について。この本は、集団討議の現象学と言うべきだ。フーコーは、王様であり、自分の中に、何人も自己を持っている。(しかし、フーコーは、王様と呼ばれることを否定するだろう。)だから、一対一の対話を、言語と思う人は、面食らうだろう。「監獄の誕生」について、私は、『3つの解釈』と私が呼ぶものと言った。そして、冒頭に、隠喩と言うリンゴを、2つに切って、背中合わせにくっ付ける、と言った。フーコーは、外部への自己拡大者として、三人位存在してるのだ。この豊かさは、もう一つの多重人核分裂であろう。いや、内部への自己拡大者になったのだ。「知の考古学」では、外部の拡大者であり、「監獄の誕生」では、内部の拡大者なのだ。
そこで、分裂について、考えよう。基本的には、二重人格の問題を、避けて通れない。二重人格と多重人格は、違うと思う。多重人格は、実り多きものであり、二重人格は、実り少なきものに思える。二重人格は、嘘つきと言う意味しかないからだ。 二重人格は、多重人格の原因か? 違う気がする。しかし、R・D・レインは、二重人格を、分裂病の核心に置いた。この事を覚えておこう。私の分裂病研究の泣き所だから。
セックスと二重人格は、私の探求の泣き所なのだ。あのサリバンだって、フロイトの真似をして、「肛門性交したい」などといってしまう。(「現代精神医学の概念」の中で。)
話を戻そう。多重人格の問題は、やはり、二重人格の問題かもしれない。私は、自分を見ながら、探求する。ごまかしも、今なら、修正できるから。いや、ごまかしこそ、重要な、手掛かりだろう。一方から他方へ移行する思索ではなく。(これは、嘘だな? やはり、一方から他方へ移行するな。)
構造主義の多重人核分裂は、レインの単純な二重人格理論へ戻るかもしれない。
私は、フロイトが好きだ。フロイトは、無限に続く。ユングは、無限に、停まってしまう。
何故だろう? 同じ無意識の理論家なのに? ユングは、無意識を、意識したくないのだ。
そのくせ、無意識を、直接知ったのだ。そして、ユングは、無意識を、宝だと言う。宝を、意識したい人と、宝を、意識したくない人が、居るのだろうか? 何故、フロイトは、前進できたのだろうか? しかし、フロイトは、分裂症に素っ気ない。シュレイバーの症例研究を見れば、解かる。ユングとフロイトの関係は、永遠に難しい。ユングは、被害者であり、フロイトは、加害者であると、私は、はっきり言っている。事実、フロイトの被害者は、多く居る。一生分裂症から、脱出できなかった人が、多く居る。ユング、ライヒ、フィレンツェ、ラカン、アルチュセル、などなど。分裂症の中には、無意識と言う宝がある。そこまでは、ユングと一緒である。そこから、フロイトへ、飛ぶのが、ひどく難しい。
卑しい、只のセックス主義者になってしまうのだ。フロイトは、笑っているだろうか? そう、フロイトは、笑っているに違いない。
私にとって、相手にとって不足のない、敵である。私は、やはり、ユングの味方でありたい。セックス思想ではないフロイトが、在りうることに、賭けたい。私が知ったフロイトは、セックス思想ではないと思う。フロイトの短い論文だが、「抑圧」と言う論文がある。そこには、何か遠いものがある。 少しふざけると、ハイデッカーの「存在と時間」のように、フロイトは、「抑圧」について語ると言いながら、途中で、何の定義もなく、『原抑圧』と言い出す。ハイデッガーもまた、存在の話をするといって、『現存在』と言う言葉を使う。何がしかの前提は、思想家や哲学者に必要なのだろう。それを、疑っては、話は進まないのだろう。冗談はさておき、レインに帰ると、レインは、フロイトは、地獄から宝を、持ち帰ったと言っている。そして、ユングは、フロイトを讃えて、『夢判断』に、劇的に、エディプス・コンプレックスが、出て来る事を、証言している。(『変容の象徴』の中で)
ユングは、フロイトを憎んでいない。『変容の象徴』、すなわち、メタモルフォーゼは、人生の午後にある。いつ、人が、人生の午後に立つかは、計れないが? もし、人生の全体を、知りたいのなら、フロイトに、聞けばいい、と思う。果たして、人生が、メタモルフォーゼか、どうかは、分からないが? メタモルフォーゼでは、無い人も居るし。
少し言い過ぎた。人生に、午後など無いからだ。
結局、フロイトは、深いのである。フロイトは、どんな思想家か? 簡単に言えば、小さい事件を分析する人である。大きい事件には、興味がない思想家である。政治的事件や、政治的発想をとらない人である。誰にも言えない、小さな事件を、重んじる人だ。
日常の小さな事件や、暴力に、詳しいのである。 いとこの叔父さんに、フェラチオをさせられた少女とか、人殺しを見てしまった人とか、新聞にも乗らない暴力に出会った人とかを、見る人である。それらの「精神外傷」を、セックスの問題とする思想家である。 今日的には、「精神外傷」は、セックスの問題である。お涙頂戴は、入らないといった思想家である。 「精神外傷」など、問題外と言った思想家である。 しかし、精神外傷の話ばかりする思想家である。そして,フロイトは、乱暴な分析を否定した。
次に、メラニー・クラインについて。メラニー・クラインは、良い母と悪い母に、分裂病の起源を求めたが、それは、子供の側の錯覚かもしれない。レインが、提起した、解釈と経験を、ずらされる経験のほうが、普遍的な問題かもしれない。そこにも、錯覚があるかもしれない。いずれにせよ、セックスと暴力の問題は、果てしなき問題であろう。
私は、「精神外傷」を重んじない。「人生の午後」も重んじない。フロイトと同じ意見に、立ちたい。「精神外傷」は、セックスの否定なのだ。水浸し状態なのだ。「人生の午後」は、ありえない。これ以上生きたくない人の、錯覚と、言うべきだろう。フロイトが、最後に、神経症を、死の本能といった意味を、私は、これ以上生きたくないという意味に取る。いささか、神話的な言い方だが。これ以上生きたくない原因は、「精神外傷」だが、これ以上生きたくない決定は、「自己」がしてると言っていいだろうか? フロイトを神秘化する気はないが、死の本能にしても、疾病利得にしても、生きてゆきたい人にとって、関係ないものだ。いささか乱暴に言うと、もっと激しく生きていいし、もっと丁寧に生きていい。少し思索が、乱暴になった。もっと、一つ一つの概念を、掘り起こそう。
私は、分裂病・ユングから、神経症・フロイトへ変わりたいと、言ってると思う、一貫して。
話は、メルロ・ポンティに変わる。メルロ・ポンティの「見えるものと見えないもの」は、二倍の神経症と思う。西洋人の根底には、悪いものなんてないと言う思想があるのだろうな? 意識などと言う不真理を、真理へ変えたサルトルのように、神経症などと言う不真理を、真理に変えるメルロ・ポンティが、いるのだろうな? 私は、ハイデッガーの「芸術作品の始まり」を、真理と思ったことがある。そして、ご他聞にもれず、レビィ・ストロースに嵌まり、「構造人類学」の中の、「呪術と呪術師」・「象徴効果」に、真理を、感じた。
いわゆる、知解作用と出会った。その後、幾つかの、知解作用を知った。ミッシェル・フーコーの『言葉と物』の中の生物学の章や、『知への意志』や、ライヒの『性道徳の出現』(正確には、婚資のメカニズムの所)など。しかし、これは、人文主義者の思い上がりだと思う。知解作用の本場は、科学と芸術にあるから。ふざけて言えば、レヴィ・ストロースが、売った喧嘩である。正直に言うと、何が真理で、何が不真理か分からなくなっている。
そして、フーコーは言った、「真理とは、権力です」と。それは、フロイト思想なのだ、とすぐに、私は、気付いた。今日、良書は、多くあると考えている私にとって、良書がないといったレインは、敵である。勿論、素晴らしい敵である。私の探求には、二つの泣き所があると言ったと思う。セックスと二重人格である。セックスは、フロイトだし、二重人格は、レインである。私は、素晴らしい二人の敵を、持った。
話を戻し、「精神外傷」について。
精神外傷は、放って置けば、いいのだ。特に、大人の場合。精神外傷は、セックスの問題に過ぎないのだ。生きる気のない奴に、構ってる必要は、ないのだ。フーコーのように、外部の拡大者になり、内部の拡大者に、成るように、頑張ろう。精神科医には、申し訳ないが、狂気など、肥やしなのだ。フーコーの中に、フーコーが居る。それで、良いのだ。
「シビル」・「ビリー・ミリガン」で、良いのだ。精神外傷は、セックスの問題であり、暴力の問題に過ぎないのだ。レイン風に言えば、我々は、「内側からも、外側からも、疎外されているのだ。」しかし、我々は、何故セックスできないのだろうか? 私は、かつて、「キャバ研」なるものを、作ったことがある。それは、露骨な主張だった。風俗産業に着目したのである。そして、この問題提起は、私自身に使った。私は、随分風俗店に、通った。私は、セックスを、風俗店で間に合わせた。ナンパも、した。ナンパは、人格を傷つけることを知った。実に、二重人格でないセックスも、二重人格でないナンパもないと知った。
フロイトの、何か遠いものは、やはり、セックスなのだろうか? セックスと二重人格の問題は、一つなのだろうか? しかし、ジャック・デリダの言葉を借りるなら、「もはや差延されないものは、絶対的に差延される」という訳だ。そして、日本語で言えば、「慌てる乞食は、貰いが少ない」であろうか? 直接性の否定を、正義としたジャック・デリダの思想について考えてみよう。 直接性が、間接性であり、間接性が、直接性だ、とデリダは、言ったと思う。それは、晩年のメルロ・ポンティの言う、間接的存在論に、近いと思う。勿論、デリダは、暴力の直接性を否定してる。そして、現実・現在は、差延作用から考えられないといった。現実・現在は、差延作用を考えられないとも、言った。現実・現在は、差延作用を失っているのだ。現実絶対思想は、差延作用を、失っていることに気づけないのだ。そこで、私は、ある考え方を、提出する。それは、「原他者・現他者理論」という思想である。差延作用を、失っている人は、つまり、現実・現在の人は、どこで、差延作用を失ったかである。そして、どうやって、差延作用を、回復するかである。単純に言えば、差延作用は、過去のことだろう。(そして、意識の事だろう。)しかし、暴力の直接性を、暴力の直接性で否定しても良い、と最近考えてもいる。デリダの思想が、弱いものだ、とすることは、可能だ。
デリダとラカンは、似ている。「過程と実在」である。実在の前までが、意識だ、と言っている。 この「実在」は、「原他者」である。そして、「過程」は、「現他者」である。ラカンの言葉を借りれば、〈大文字・他者〉と対象aである。心と理性である。<原他者・現他者理論>は、こう言える。<原因となった他者と、現在相手にしてる他者は、違う>と。この理論は、応用範囲が広い。パラノイアから、ハプニングまで、説明できる。今は、現実が、〈原他者・現他者〉理論から、説明できるかである。すなわち、現実・現在は、ある喪失・ある失敗であり、レイン風に言うと、「過去の失敗が、現在の要求」になっているのだろう。しかし、「対象・a」の行為と言うものがある。すなわち、「現他者」の行為が、ある。ここで、止めとく、〈原他者・現他者理論〉は、未だ、生煮えであるから。
現実・現在は、差延作用を考えられない。差延作用は、現実・現在を考えられない。取り敢えず、そう言おう。あまり、一挙に、言おうとしてしまった。差延作用も、「原他者・現他者理論」も、完成された概念ではないと、言うべきだろう。いつか、この現実否定の思想を完成したいと思う。いつか、この現実超越の思想を完成させたい。現実が、〈原他者・現他者理論〉から、証明できることを、現実が、〈原他者・現他者理論〉でしかないことを示そうと思う。私の思索が、いささか横へずれてしまった。
フーコーのように、解かる事だけ言おう。<原他者・現他者理論>は、ハイデガー・ラカン・デリダに近しい。そして、それは、ニセ自己の体系なのだ。では、真自己の体系は、どこにあるのだろう? 答えは、ガダマーの中にある。ニセ自己を、真自己に変え、真自己を、ニセ自己に変えれば、良いのだ。このハイデッガーに、忠実な思索者は、連続性を重んじる。不連続性を連続性に、変えればいいといってくれた。そして、また、連続性を不連続性にするのだ、人間は。不連続性を連続性に変え、連続性を不連続性に変えればいいのだ。この保証は、私にとって、ガダマーの中にあった。ニセ自己を、真自己に変えるのは、ガダマーであり、真自己を、ニセ自己に変えるのは、私の日常なのだ。ガダマーに、サルトルに、似た面を感じるのは、私だけだろうか? とにかく、ニセ自己は、真自己に変えられる。それだけで良い。真自己を変える必要はない。
二元的思索の間違いだ。真自己は、誰にもある。問題は、ニセ自己だけでいい。
私が、提案した<原他者・現他者理論>も、ニセ自己なのだ。ニセ自己を、真自己にしなくてはならない。しかし、<原他者・現他者理論>は、面白い。いつか、皆に、発表したい。こうご期待。
ニセ自己は、真自己に、変えられる。レインに、私は、勝っただろうか? ガダマーを、保証とするのは、嘘だろうか? ニセ自己は、真自己に、変えられる。真自己は、ニセ自己に、変えられる。まるで、ヘーゲルの「精神現象学」のように、自己に帰った人は、また、自己から出てゆく、である。そのことを、香山リカは、「着脱可能な私」と言うのだろう。私は、中年の余裕の将棋をしてるだろうか? 
話を変えよう。マルクスについてである。マルクスは、平凡な一生を送ったのである。彼自身は、革命運動などに、飛び込んでいない。彼自身は、一生涯思索家であったに過ぎない。同じ事は、フロイトにも言える。そして、今日、レビィ=ストロースが、そうである。
只の思索家に、我々人類は、振り回されているのだ。赤、青、黄色、である。大きな事件、小さな事件、中位の事件、である。政治、犯罪、文化の天国、である。これら思索家には、身体というものがない。或いは、肉体というものがない。生きるというものには、身体や、肉体というものも、あるのだ。汗を流して働く、セックスして汗を流す、汗と言う人間らしさが、必要なのだ。泣いたり、笑ったり、喜んだりすることが、必要なのだ。しかし、これら思想家には、喜怒哀楽がない。内分泌線の活動がない。
文字の平面的世界にしか、存在してない。つまり、「ヴ・ナロード」がない。人民の中へ、降りてゆく思想がない。ここで、新しい思想家に、登場してもらう。
その名は、クリプキである。彼は、何処にでも存在できるか、と言う。何処でも、同じ発言が、できるか、と言い出した。それを、「可能世界」と呼んだ。君は、何処の世界でも、自分の主張をできるか?と言い出した。何処の世界でも、主張できないなら、君の主張は、嘘だと言った。クリプキは、左翼の欺満を暴く。それは、周りを見ていないし、降りても居ないと。私たち、左翼も、かつて、身近な人を、何故口説けないのかと、言っていた。
そして、未だに、口説けないでいる。クリプキは、フーコーとよく似ている。それは、「3つの解釈」なのだ。それは、今の解釈なのだ。クリプキは、やはり、女性的で、今の思想家なのだ。彼には、差延作用を、理解できないのだ。男が、過去を、愛して止まないことを、理解できないのだ。しかし、今を、愛してやまない人が、正しいと思う。クリプキは、やはり、切断の思想家であり、ガダマーのような、不連続性を連続性に変える思想家では、ないのだ。もっと、不連続性を作れ、と言ってるのだ。不連続性を、何処まで、抱えられるかは、神のみぞ知る、である。私は、ガダマーに従う。不連続性は、フーコーで精一杯であると。始めっから、帰る思想家が、居てもいいと思う。 たかが、レヴィ=ストロースの思想ぐらいで、人類は、何を、大騒ぎしているのだろうか? ガダマーを、信じようではないか? 不連続性は、連続性に、変えられる、と。 最後に、少しふざけよう。レヴィ・ストロースって、心理学者だろ? いや、社会学者だってさ。じゃあ、不連続性を、連続性に、変えられなかったんだね? やっぱり、フロイトの弟子だったんだね。 でも、フロイトも、不連続性を、連続性に、変えられなかったんじゃないの? 
少し、神話的に語ろう。厳密な思索は、疲れる。神経症は、人生の無駄だから、死の本能なのだろう。そして、分裂病は、生の本能なのだろう。いや、分裂病は、性の本能の否定なのだ。いや、分裂病も、人生の無駄だから、死の本能なのだ。ドールーズ=ガタリの、驚異の本がある。一つは、「カフカ」。もう一つは、「ミル・プラトー」。「カフカ」のほうは、例えば、こんな調子だ。「分裂病的動物は、オイディプス的動物なのだ。」(じゃあ、分裂病と神経症に違いはないことになる?)「オイディプス的タナトスと分裂病的エロスの間を、揺れ動いている。」など。この見地には、未だ達していない。しかし、ケネス・バークのように、シンボルは、否定を発明した、と言う単純な分裂病の、讃歌もある。我々は、別に、動物ではないのだ。ましてや、分裂病の上に、オイディプス的動物である理由もない。我々は、否定と言う財産の上に生きてるだけだ。しかし、話を続けよう。「ミル・プラトー」の序文である。いわゆる、リゾーム宣言。そこに、人類初の、フロイトへの、「言い返し」がある。
「ハンス坊や」へのフロイトの分析を、ドールーズ=ガタリが、言い返したのだ。それは、解釈学だった。メラニー・クラインを、使っての、「言い返し」だった。フロイトを、否定したのではなく、フロイトに、別の意見があると、言ったのだ。ドールーズ=ガタリは、フロイトの絶対性を、知っている。だから、別の、絶対性を、ぶっつけたのだ。
絶対 対 絶対 。人類の知性は、面白い段階へ入った。
少し、真面目に言おう。分裂病は、動物化ではなく、人間化なのだ。そして、オイディプスも、動物化ではなく、人間化なのだ。(他人によるが。)ヘーゲルが、予告した絶対知の複数の対立、複数の戦いが、始まるだろう。何が、人間化で、何が、動物化なのだろうか? その定義は、もめるだろうな? 労働は、最初の人間化だと言う人もいた。(エルンスト・ブロッホ)そして、次の人間化は、無階級社会だと、言った。(これも、ブロッホである。)勿論、私の意見ではない。労働も、無階級社会も、非人間的な場合がある。マルクス主義に、喧嘩を売る気は、ないが? 一体いくつのタイプの労働があるか、数え切れないのだ。細心の注意を払う研究者のような労働もあるし、危険な重労働もあるし、怒鳴りあう職場もあるし、人格を売る労働もあるし、協力しなければできない仕事もある。どの労働が、人間的か、どの労働が、非人間的か、誰が計れると言うのか? スーパーのレジや、パチンコの従業員や、風俗店の従業員や、ナンパするホストを、何で計ればいいのだ? 同時に、市民を守る警官や、夜勤する看護婦さんを、何で計ればいいのだ? マルクス主義者は、無階級社会を、理想としているが、無階級社会は、やくざ者の社会として、存在してるのだ。そこには、おぞましい暴力や、おぞましい犯罪が、存在してるのだ。しかし、私は、別に、階級社会の味方でもないし、ましてや、支配者階級の味方でもない。(私は、階級社会という言葉を、理解してないが。)支配者階級は、輪廻するのだ。新しい支配者、古い支配者、元支配者、現支配者と、輪廻するのだ。時には、正義の味方だったり、時には、悪の味方だったりするのだ。やくざの味方だったり、やくざの敵だったり、するのだ。それは、文化の両義性といった、味わう問題ではないし、自然の両義性といった、残酷さでもない。それは、人間の、人為的両義性なのだ。支配者は、やくざと考えていいと思う。詩的に、やくざは、支配者と、言っていいと思う。そして、やくざの世界は、無階級社会なのだ。そんなニセの母権制に、我々は、帰れない。ここに、リゾーム、ドールーズ=ガタリへの否定がある。リゾームは、やくざ者の世界なのだ。他人によっては、救いであろう、やくざ者の世界がある。リゾームは、強いリゾーム、弱いリゾームに分かれる。(或いは、大人のリゾーム、子供のリゾームと言う言い方も可能だ。)そして、強いリゾームは、異常と、言っておこう。理想夢は、リゾームと濁っている。
やくざ者の世界は、フロイトにしか、解けないだろう。自己の無意識に留まっているユングでは、やはり、戦えないだろう。やくざ者が、無意識であると、言い切るフロイトにしか、戦えないだろう? セックスは、当たり前と言うやくざ者、人殺しも、当たり前と言うやくざ者、指を詰めて、反省だと言うやくざ者、これらの気違いを、我々は、殲滅しなければならない。当たり前など、何処にもないのだ。答えだけ知っていると言うやくざ者を、滅ぼさねば成らない。フロイトは、ユングの優しさを、知っていた。しかし、フロイトは、やくざ者の、〈意〉と言う、このでたらべを、知っていた。無意識を、かなるずしも、肯定していない。フロイトは、やくざ・やくざ者の無意識を、肯定していない。人間の模造物と、考えただろう。フロイトは、この〈意〉というものを、エディプス・コンプレックスと考えたと、言える。意識は、無意識だというわけだ。(それは、素晴らしいが。)やくざ・やくざ者の分析は、アメリカに、任せたい。ヤンキー以外に、そんな分析は、できないのだ。アメリカの、白人の力だと思う。
我々日本人に、やくざの分析は、無理なのだ。アメリカの力に頼ろう。アメリカは、雄大な国
だ。やくざ者位、やっつけてくれるさ。
フロイトは、夢分析したのだ。私にとって、夢分析は、意識の疲れを取るために見ている夢を、分析する事で、疲れさせることなのだ。夢は、欲望なので、どうでもいい。 欲望など、私にとって、一つも欲望では、ないのだ。意識の欲望を、満たしてくれても、無意識の欲望を、満たしては、くれないのだ。夢は、無意識の王道だといった、フロイトは、私には、無意味なのだ。夢は、所詮、意識の欲望なのである。もっと深い夢分析に、会う必要が、ある。意識の疲れを、取る夢ではない、もっと深い夢が、必要だ。しかし、そんなもの必要ない。ぐっすり寝て、夢が、意識の疲れを取ってくれればいい。
暫定的結論を、言う。やはりガダマーだ。不連続性を、連続性にする。これだ。ニセ自己を、真自己に、真自己を、ニセ自己にするだ。私の思索は、一方から、他方へと、動いている。幾つかのテーマを、繰り返し、考えているだけなのだが?
いささか、冗長な言い方も、した。支配者の話や、やくざ者の話では、口を濁しても居る。フーコーの「3つの解釈」、〈原他者・現他者理論〉、デリダの差延作用と言った生煮えの概念も使った。レインを、ガダマーで超えるとも言った。決定、確定できないことを、言い過ぎた。神経症は、人生の無駄だから、死の本能だと、フロイトを、神話化してみた。精神外傷を、無駄だとも言った。しかし、その無駄は、重要だと、変えよう。精神外傷の問題は、人生を差延作用してしまう。これを、治さなければいけないだろう。精神外傷は、自然に治るだろうか? 精神科医の役割とは、何か? 精神外傷が、宝に化けるまで、見守ってあげることか? フロイトは、地獄から、宝を持ち帰ったと、レインは言った。人生を、差延作用される精神外傷とは、何なのだろう? セックスの問題か、暴力の問題だろう。どちらの問題も、巨大である。
ここまで、整理するのが、精一杯である。「妄想の超越性」については、またにしよう。ミッシェル・フーコーの「狂気の歴史」に、存在してるとだけ、言っておく。内部が、外部に、転写されているのか?外部が、内部に、転写されているのか? 言語が、内側に廻ったのか? 自罰が、他罰に変わったのか、他罰が、自罰に変わったのか、分からない。
自罰パラノイアは、他罰パラノイアの前に、負ける。しかし、自罰パラノイアは、他罰パラノイアに、負けると、勝つ。意識は、無意識に負けると、勝つのだ。ここに、ユング的経験が、あり、不可逆の経験が、ある。ユング風に言うと、「対立は、全体である」が、ある。分裂病の中の、宝がある。私風に言うと、「負けると、勝つぞ」が、ある。しかし、不可逆の経験は、秘密なのだ。そして、意識の至上性は、その王座を明け渡す。意識以外を認められない人間時代は終わった。自己の中に、他罰と言う無意識のあることを、知る時代になった。しかし、意識は、無意識を知らないし、無意識のほうも、意識には、興味がないから、ユングの話は、取っておく。「他罰する位なら、自罰しないよ」と言う「背理の思考」(ユング)には、「2倍自罰すると、2倍他罰する」と言う、法則との出会いが、あるのだ。それは、一種の比例式でね。「自罰すればするほど、他罰する」と言う経験があるのだ。こうして、私自身、少しづつ、無意識=肯定に、近づくのだ。無意識=肯定=差異、意識=否定=無差異と言っていいだろうか? いや、無意識=肯定には、少しづつ、近づこう。肯定、それは、獣の領域かもしれないし。何でも知っているように、書いているが、未だ、何も知らない。繰り返し、繰り返し、幾つかのテーマを書いてるだけだ。肯定と否定、意識と無意識、そのまた先に、下意識=意志の世界が、ある。さらに、前意識が、ある。私は、未だ、何も知らない。ユング、レイン、ガダマーの話は、整理不十分と思う。文字には、一方性の組織化という本性があるのだ。私自身は、双方性を、目指してるのに。力不足なのだろう。何もかにも、盛り込むわけには、行かないのだろう。精神外傷には、時間が、必要なのだろう。立ち直るのに、時間が、必要なのだ。
再び、分裂病に、戻る。分裂病にとって、妄想とは、何か? 言語が、内側へ廻ったのでは、ないか? だから、分裂病における無意識の体験も、外側が、内側へ転写されただけでは、ないか? 治療関係として、内側にあるものが、外側へ、現れたのが、レインの、治療関係論としての、「引き裂かれた自己」では、ないか? 私は、外側に現れたのが、治療関係で、内側に、現れたのが、無意識の体験だ、と言いたい。 再び、私は、造語を使う。「ユークリッド心理学」と言う造語を、使う。人間は、やられたら、やり返す、と言う、無意識心理学の法則を、言いたい。レインの治療関係論は、まさに、「ユークリッド心理学」である。患者は、医者に、やり返すと言ってると思う。しかし、それは、外部の関係だ。無意識心理学は、内部で、やり返すのだ。外部で、やり返せば、レインの治療関係だし、内部で、やり返せば、ユングの無意識心理学だろう。しかし、厳しく考えよう。外部が、内部になったのが、ユングであり、内部が、外部になったのが、レインだと。いや、ここには、「ユークリッド心理学」しかない。患者は、医者に、やり返すのだ。医者は、患者に、やり返すだろうか? 2倍の自罰が、2倍の他罰を生むが、「ユークリッド心理学」の基本だ。そして、我々は、それを超えたいと思っている。やられたら、やり返すでは、進歩がないからだ。「ユークリッド心理学」は、無意識の基本であろう。ユングは、その事を、よく知っている。治療関係を、自己に使えば、ユングだし、他者に使えば、レインだと思う。つまり、無意識の体験を、ある外部の体験の、転写と、考えてみたいのだ。内部は、外部の反映であり、外部は、内部の反映だと、言いたいのだ。別に、私は、マルキストでは、ないが? 無意識心理学を、高く評価するが、それが、外部のある反映だとしたら、我々は、騙されている事にならないか? 無意識心理学を、外部にすれば、レインだし、内部にすれば、ユングだと言うことにならないか? しかし、ここに結論はない。
フーコーの2つの側面については、語ったと思うが、それを、もう一度、繰り返そう。すなわち、フーコーは、外部の拡大者であり、内部の拡大者であると、言ったと思う。ここに、結論が、ある。そして、ガダマーを借りて、不連続性を、連続性に、変えるとも、言った。当面のスタンスは、ここに、ある。我々は、外部の拡大者であり、内部の拡大者であり、不連続性を連続性に変える同一者であろうと、思う。ニセ自己を、真自己に変えて、生きようと、思う。我々は、ニセ自己であり、真自己である。不連続性しか、生きれないし、不連続性を、連続性に変える希望しか持てない。我々は、完全には、同一者に成れないし、完全には、他者になれない。我々は、完全には、真自己になれないし、完全には、ニセ自己になれない。我々の希望は、ガダマーの中にある。すなわち、ニセ自己を、真自己に変えればいい、である。レインが、放ったこのニセ自己と言う言葉は、強烈であった。そこには、救いと言うものがない。
我々は、いつも、このニセ自己と言う言葉を、持っていなければ成らなかった。
二重人格と、セックスは、私の探求の、敵であったし、ごまかしの効かない手掛かりだった。ニセ自己は、真自己に変えられる、と言う、ガダマーの教えは、貴重だった。
ガダマーの方法論について、少し考えよう。ガダマーは、歴史学の方法論に、一致している。フーコーの「監獄の誕生」と、同様に、部分の完全性だと思う。フーコーは、「言葉と物」において、失敗している。全体性を、求めすぎたのだ。
ニセ自己は、真自己に回収できる、このガダマーの保証は、素晴らしい。堂々と、ニセ自己が、出来る保証だった。ニセ自己、不連続性で、悩まなくてすむ、だった。(ちなみに、ガダマーの本は、「真理と方法」と言う本である。)
フーコーの「知の考古学」を、外部の拡大者と呼び、「監獄の誕生」を、内部の拡大者と呼ぶのは、ほんの始めである。その先に、関係の拡大者が、あるからだ。レインは、関係が見える状態を、分裂症と、見ていたと思う。レインの「結ぼれ」などは、関係が、見えると言う、分裂症の真理に近いと思う。しかし、これは、さらに遠い話だ。関係の拡大者まで、人類は、行かないだろう。しかし、外部の拡大者があり、内部の拡大者がある、今日、次の目標は、当然関係の拡大者だろう。他人が、やったことを、やる人は、いないと言う、差異の思想があるが、どうだろう? フーコーは、勿論、自由の旗手だったが、ハーバーマスのような、社会性の上の、自由主義者もいる。言語が、社会的規約を、持っている、間に、制度があることを言う人も、重要と思う。我々が、社会的コードの上にしかないことを、言ってくれる人も、重要だろう? コードを束ねると、原始のメッセージが、成り立つと、レヴィ=ストロースは、言ったが、そんなもの冗談だろう?と思う。自分が知っている唯一のコードで、生きるしかないだろう。
ベートーベンは、この音でしかない楽曲を、求めたと言う。コードを変えて演奏するのもいいが、コードも色々なのが、実際の話だ。私としては、未だ、コードを変える気はしない。私は、「大資本と街」と言うコードに、存在している。「技術者」とか、「行政官」とか、私が、使った覚えのないコードは、幾らでもある。「田舎と都会」などというコードも使っていない。ジェット機のパイロットも、スチュワーデスも、使ったことがない。テレビのディレクターも知らない。やくざの幹部の息子も知らないし、やくざの下っ端も知らない。私が、使えるコードは、ハーバーマスと一緒の、社会的コードに過ぎない。それは、ユング=レヴィ・ストロースと言うより、レーニン主義に近い。すなわち、「大資本と街」のコードである。どちらも、商業資本の世界である。しかし、レーニン主義を、内側から見ているから、やはり、ユング=レヴィ・ストロースであろう。
そのコードは、裂け目である。一方が、他方を、差別だと言う風習がある。そして、一方が、他方をいえない、階級社会にも、出会う。果たしてこのコードは、万能だろうか? 変えらるものなら、変えたい位だ。フーコーについて、部分を使って、全体を描くと言ったが、今の私は、正に部分である。そして、その部分は、アメリカ映画にある、場末いの酒場で、降りたヒーローが、存在するシチューエーションならいいのだが? これは、冗談だが。
多彩なコードを、使っていない、私の存在論が、あるのだ。それは、万人に付き合いたくない私のスタンスなのだ。万人に、一つなる神が、在られるというが、私にも、好き嫌いはあるのだ。多彩なコードを使わないことに、私は、希望を感じている。わたしの中に、フーコーと同じ精神構造があるのだ。すなわち、「肯定の希少性」「希少性の肯定」が、あるのだろう。フーコーとレヴィ=ストロースのどちらが、欲張りかは、判定しきれない。レヴィ=ストロースは、古きよき世界を、味わっている。フーコーは、自分の世界を、味わおうとした人だ。自分の社会を、味わうのは、難しい。自社会型知性と、他社会型知性は、難しい。前者は、フーコーであり、後者は、レヴィ=ストロースである。レヴィ=ストロースのほうは、容易い。
しかし、フーコーのほうは、容易くない。自分の社会を診るのは、難しいと思う。
私も、一つのコードしか使ってない。レヴィ・ストロースを、存在論として、受け入れて、幾つかのコードを、私も、使えばいいか? 「肯定の希少性」、それは、肯定の否定なのだ。同時に、禁欲精神だったと思う。我々は、肯定を増やしてもいいのでは、ないか? 
我々は、コードを、増やしてもいいのでは、ないか? 「対立は、全体である」=ユングを、複数にすればいいのだ。「対立は、全体である」は、一種の呪縛だった。それは、現実の本当の全体か?と、悩んできた。無意識の宝物と、現実の全体との、対立があった。「対立は、全体である」を、拡大して、現実の全体と合流するしかないだろうか? そんな必要はない? 2つの「対立は、全体である」が、在ればいいのだろう。しかし、もう一度、無意識体験しろ、と言われても、もう一度、分裂病者に成れ、と言われても、無理だろう。2つの「対立は、全体である」を、どう経験したらいいのだろう? もう一つの「対立は、全体である」を、経験しなければ、ならないのだろうか? 「対立は、全体である」は、永遠の言葉なのだろう。しかし、社会には、100の「対立」が、在ると考えるのも、そう不自然な、現実観では、ない。
所で、精神外傷は、人生の無駄だから、死の本能だ、に帰ろう。そして、精神外傷は、貴重な宝に化けると言うフロイト自身の可能性を、信じたい。人生が、差延作用されるのは、耐え難い。分裂症だろうと、神経症だろうと、精神外傷だろうと。「世界・内・存在」であろうと、「世界・外・存在」であろうと。「世界・内・存在」は、連続性だし、「世界・外・存在」は、不連続性だが。そして、連続性は、不連続性に変えられるし、不連続性は、連続性に変えられる、と言うお墨付きを、ガダマーから、教わった。「世界・内・存在」は、「世界・外・存在」に、変わる時がある。それを、分裂病と、呼んでいただけだ。「世界・内・存在」は、正常であり、「世界・外・存在」は、異常なのだ。そして、私は、「世界・外・存在」を、持っている。たぶん、わたしの「世界・外・存在(分裂症)」は、治らない。その事を、私は、気にしない。むしろ、喜んでいる。罪深い、私とその人生の反映と思っている。罪意識は、重要な感情と考えている。罪意識を、外見と言った、ドールーズ=ガタリは、或いは、ルソーは、自身の精神外傷を、治せなかったのだろう。しかし、私も、精神外傷を治せそうにない。お互い、違ったタイプの、問題を、抱えているのだろう。なぜなら、私は、ドールーズ=ガタリが、フロイトに、「言い返し」したことを、高く評価してるから。フロイトだって、傷は、ある。フロイトは、分裂症に、素っ気ない。そこに、傷があるといっても良い。また、レヴィ=ストロースにも傷が、あるだろう。レヴィ=ストロースは、神経症に、素っ気ない、と言った具合に。しかし、傷は、一つや二つでは、ない。精神外傷は、セックスの問題と暴力の問題に大別されるに、違いない。今の段階では、そう思う。薬物の問題、文化の問題、孤独の問題、生活習慣の問題、近所付き合いの問題、政治の問題、経済の問題、都会の問題、思想の問題、人間性の問題、家庭の問題、結婚の問題、友達の問題、出世の問題、受験の問題、将来の問題などなどは、置いておく。最後に、自然の両義性の問題があるが、これは、又の機会にしよう。

私は、階級社会にも、無階級社会にも、興味が、ない。支配者にも、やくざ者にも、興味がない。ロック音楽が、好きな自由主義者に過ぎない。構造のないフーコーは、詰まらないし、構造のあるメルロ=ポンティは、詰まらないと、思っている、只の学問のファンに過ぎない。私は、譜面の読めない、只の即興演奏家に過ぎない。私は、左翼の教育を受けたが、それすら、覚えていない。只、左翼経験は、入り口と出口が同一だった。「逃げる時、ばれる」であった。左翼が、作ってくれた不可逆の知は、忘れてしまった。左翼の教えは、君の否定は、肯定であり、それは、支配の思想なのだ、と言うものだった。これも一種の無意識心理学と思う。どこかに、肯定があると、言えば、やくざ者の無意識心理学にもなる。無意識=肯定には、少しづつ、近付くと言ったと思う。私自身は、フロイトの言う無意識に興味が、あるだけだ。ユングは、卒業したい。
話は、変わり、「原他者・現他者理論」である。「原因になった他者と、現在相手にしてる他者とは、違う」である。我々は、いつも、差延されているのだ。「原他者・現他者理論」の「原他者・現他者理論」もあると思う。「原因になった他者」を、やっつければ良いと考える人も多いと思う。しかし、「原因になった他者」の前にまた、「原因になった他者」がある可能性は、大いにある。「ユークリッド心理学」で行けば、人間は、相互性を、満たしているから、つまり、「やられたら、やり返す」の法則を満たしているから、この世は、完全なのだ。相互性以上の、民主主義は、無い事になる。私は、やくざ者のことを考えている。私は、彼らやくざ者には、「原他者」が、いると思う。「原因になった他者」を忘れて、「現在相手にしてる他者」に、暴力を、振るうと、考えられる。果てしない、代償である。
再び、話を、心理学に戻そう。完全な相互性である「ユークリッド心理学」は、心を、通過してゆく。それは、無意識と呼ばれる。「ユークリッド心理学」を知った者は、二度と、「ユークリッド心理学」に、触れない。無意識とは、この「ユークリッド心理学」に、触れることなのだ。我々、無意識心理学者は、「ユークリッド心理学」を、通過する、内部で。そして、やくざ者は、外部で、「ユークリッド心理学」を、実践しているのだ。
内部で「ユークリッド心理学」する我々と、外部で「ユークリッド心理学」するやくざ・やくざ者の世界は、正反対だと、言って欲しい。「ユークリッド心理学」を意識したものは、「ユークリッド心理学」を卒業する。我々、無意識心理学者は、「ユークリッド心理学」を、通過するだけだ。内部が、外部に転写されてるのか、外部が、内部に転写されてるのかは、分からない。我々は、「ユークリッド心理学」を、超えたい。しかし、それは、人間の本質なのだ。我々としては、一旦、無意識を、認めて、超えるしかない。この、一旦、認めるは、「負けると、勝つぞと言った私のテクニックなのだ。無意識に、勝つ方法は、一人ひとり見つけなければ成らないだろう。「ユークリッド心理学」は、3つある無意識心理学の、最も難しいテーマだと思う。しかし、考え方を変えられる。「やられたら、やり返す」ユークリッド心理学ではなく、「やったら、やられる」と言う心理学も可能だろう。「ユークリッド心理学」では、あまりに、受動的だ。自分だけ、いい子だ。もっと能動的な、心理学が、在って良い。「やられたら、やり返す」では、被害者に過ぎない。「やったら、やられる」が、在って良い。加害者の心理学が、在っても良い。「ユークリッド心理学」は、無意識の体験の一つなのだ。そして、やくざ・やくざ者の思考パタンなのだ。完全な相互性である「ユークリッド心理学」は、通過するだけだ。無意識の審級の中の一つだ。だが、「ユークリッド心理学」は、「原他者・現他者理論」によって否定される。「ユークリッド心理学」は、相互性なのだ。相互性以前の問題がある。相互性という、一見まともな、現実思想の前に、私が、いる。相互性では、実現できない、私が、いる。この私は、「原他者」に向かっている。「現他者」として、ごまかされない私が、いるのだ。「ユークリッド心理学」は、相互性の、実現された嘘の世界なのだ。現実以前の、相互性以前の、私が、いるのだ。「ユークリッド心理学」は、「現他者」の表現なのだ。我々が、尋ねたいのは、「現他者」ではなく、「原他者」なのだ。「ユークリッド心理学」などという、現実性の、相互性の、道化に興味は、ないのだ。「ユークリッド心理学」などという、「現他者」の表現に構ってられない。勿論、「現他者」の行為が、在る事も認める。わたしたちは、「原他者」を、探しに行くのだ。
「原他者」から見れば、「ユークリッド心理学」など、只の「現他者」の遊びであろう。相互性でしかない「現他者」の遊びではなく、それらを、投影してる「原他者」に、尋ねたいのだ。故に、「原他者・現他者理論」は、「ユークリッド心理学」より上にある。「ユークリッド心理学」自体は、人間的ファイトだから,本来は、取っておくべきものだとも思うが?
これで、現実否定の思想は、完全だろう? これで、現実超越の思想は、完璧だろう。お約束通り。
治療関係を、外部でやれば、レインだし、治療関係を、内部でやれば、ユングだと思う。「ユークリッド心理学」は、内部でやれば、無意識心理学だし、外部でやれば、やくざ者であろう。実に、「ユークリッド心理学」は、両刃の刃なのだ。それは、差異の否定からくる。

レインの治療関係論は、外部になった無意識であり、ユングの内部になった無意識とは、少し、違う。これ以上は、展開できない。ユングの内部にある無意識は、レインの外部にある、とだけ言っておこう。最後に、フーコーの「3つの解釈」が、クリプキの「3つの解釈」と同じものだと言おう。フーコーの到達地点が、クリプキの出発地点であることを、確認して良いと思う。即ち、外部の拡大者,内部の拡大者,関係の拡大者の「3つの解釈」が、始まったのである。
少し、話を、軽くしたい。別の角度から、別のことを言おう。
ルートヴィヒ・ビンスワンガーについて、言おう。
彼の主著「精神分裂病」を、私はこう要約したい。
人生と同じ大きさの本、と。
この本では、ハイデッガーの考案した言葉、「現存在」が、応用的に使われているが、即ち、「現存在」=「人生」と言う具合に。したがって、本家の、ハイデッガーは、あまり、この本、あるいは、ビンスワンガーに、好意的でないようだ。私も、ハイデッガーの思索は、好きなので、「応用=差異」論者を、嫌う所がある。しかし、矛盾して、敢えて言えば、人生と同じ大きさの本、ビンスワンガーの「精神分裂病」は、傑作だと思う。「恐ろしいことは、起こってしまった」と言う、ハイデッガーのテレパシーに似た、伝言も、人生と同じ大きさの本と思うビンスワンガーの「精神分裂病」も、ともに、認めたい、私の思索の旅は、これからだ。
しかし、狂気の果てに、自殺した少女の一生を、人生論として書くインテリの、罪深さも、問題だが?! 私は、「エレン・ウエスト」の症例を言っている。結局、狂う人は、狂うと言う、宿命論も、出てくる。しかし、そこに、時間の感覚が、こめられている。嵐の前の静けさのように、「エレン・ウエスト」が、狂う前の時間が、印される。「現存在は、もう後戻りできないところまで、登りつめていた」と言う一説に、出会う。この、現在の中の時間性=歴史性に、私は、ショックしている。「蓄積された」と言っていい時間の感覚に、注目したい。これから起こることへの未知でもある。無理な自己を構成した者、そして、その崩壊と逆転の運命。「エレン・ウエスト」の何処がいけなかったのか? その答えは、知らない。そこから先を、読んでいないせいもあるが、次の時間を知ることを今は、躊躇っている。自殺と言う結論を聞いているので、この前の時間が、どう次の時間へ変わるのか、怖いのだ。
取り敢えず、前の時間にいよう? 私にも、この前の時間は、あったから?
正に、ビンスワンガー文学である。哲学も、ここまで来ると、文学なのだ。
しかし、まあ、別の時間を並べても良い。
私には、別の時間=現在の思い出もある。
「にしては、途中が、面白かったな」と言う時間=現在もあって。つまり、ミンコフスキーの登場である。ビンスワンガーの凝縮された時間=現在は、複数化されて、「生きられる時間」の全体に行くのだろう。いささか、先取りであるが、過去=現在と言う解決があるのでは、ないか? ここで、やっと、生煮えで、呪縛的だった、ジャック・デリダの「差延作用」からも、解放されそうだ。「差延作用」も、時間の1つ=現在の1つと気付けた。それは、あまりに、現在だったのだ。迂回せずに、思想を、続けよう。
ビンスワンガーは、真の現在が、過去にもあることをいってくれたのだろう。その時間=現在は、普遍的なのだろう。人生の位置付けられている時間として、「生きられる時間」として、提出されているのだろう。そして、私には、和解がないのだろう、過去と現在の間に。さらに、現実との間にも、和解がないのだろう。私は、言を、労してるから。
ミンコフスキーの「生きられる時間」とビンスワンガーの「精神分裂病」の中にある時間論を一緒にするのは、早計だろうか? 
人生の位置付けられた時間と、これから起こることへの未知、現在の中の時間性=歴史性は、後ろ向きだろうか? 人生の中の一種の「重層決定」が、可能か? 或いは、一種の「予兆」論が、可能か? いずれにしても、「これから起こることへの未知」は、文学的である。「エレン・ウエスト」自身が、知っていたわけでも、感じていたわけでもないのだから。位置付けたビンスワンガーの力だから。
今度は、さらに、違うことを言おう。「前に進めないから、前を掘った」人たちに、ついてだ。例えば、エルンスト・ブロッホとか、ジャック・デリダとか、エミール・ミンコフスキーとか。それは、あまりに、芸術的な人たちである。レヴィ・ストロースのように、「これからは、もう進める」と、時間を解決できなかった人たちである。そもそも、人生を止めた人たち=思想家の時間の解決の仕方の、ヴァリエーションがある。人生を止め、人生を味わい、人生を見ることを選んだ人たちについて考える必要が、ある。私もその一人と言えば、大袈裟だが?
これら思想家の運命、もっと広く言えば、芸術家全体の希求について考えるとき、欠かせない人物が、一人いる。その人の名は、コリン・ウィルソンである。
コリン・ウィルソンから見れば、思想家と芸術家は、同じ欲求、同じ生き方なのだ。時間を解決できない泣き言など、一笑に臥す確信犯と思う。15の時から、Drop Outした、思想的=意識的確信犯なのだ。高級な思想を好む、と同時に、高級な思想を笑うと言った化け物でもある。彼の中には、権威否定すらある。私は、あまり権威否定を取らないが?
Drop OutとDrop Inについては、いつか考えたいと、思っている。このヒッピー用語は、重大な問題を提供すると思う。今は、思想家と芸術家の問題に留まろうと思う。社会から出て行く話は、ヒッピーの話は、逆説的な話なので、今は、語り切れない。もし、全員が、社会から出て行ったら、どうなるか?と考えただけで、楽しい。
私は、社会学的構造主義者じゃないのだ。国家学的構造主義者なのだ。しかし、右翼でもない。
私は、自己の教育的疎外について考えている。私は、知性を楽しもうと思う。私は、右翼のように、少子化問題を、学力の低下から考える。国策として考える。私の中には、高度の教育を受けたと言う恨みがある。なのに、高度の教育に、加担しようとしている。私は、未だ、教育を否定できていない。左翼なら、そこで、「弁証法」を使うだろうか? 教育が、嫌なら、教育をしなければいい。ヒッピーのように、止めれば良い。何故、私は、自己の教育的疎外も否定できないのか? 情けない。私が、親を恨むのは、明らかに、矛盾だ。満足に、社会に出て行く思想も生き方もない。社会の手前でしかない「教育」次元にしか経験が、ないという恨み。思想に賭けてしまったコリン・ウィルソンのような私。僕は、一生学生です、と言った岸田秀先生を、思い出す。しかし、岸田先生は、大学で教えていたし、出版社から翻訳の仕事を任されるのだから、立派に、社会に出ている。社会に出ていない私は、結局、国家に行くしかないのだ。しかし、大きな会社で、国家とつながらない会社は、ないから良いか?
実際、国家に助けられた経験もあるし、社会に出られないなら、国家で行こうか?と考えている今日この頃では、ある。情けない。ブル転じゃなくて、右転だね。まあ、私は、右翼じゃないけどね。しかし、恩は恩だ。これからも、国家に助けられて生きていくと、思う。

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