経験の天文学 序論 [1977年作]


  文/田高 孝


 〈私たちは、なぜ『キャバレー研究会』に成ったのか?〉、その謎を解こうと思い、『経験の天文学』という「立派な」タイトルの本を企てたのである。私たち自身にとっても、『キャバ研』は謎であり、各人の人生に「不連続な出来事」として登場してさえいるのだ。この本は、各人の個人史を集めたものとなるだろう。ある友人とは、同級生であったという所からつながり、ある友人とは、行きずりの喫茶店で出会い、又ある友人とは、別のサークルで知り会い、という風にして個々バラバラな所で話し合い出し、次第に「集合しあった」仲間たちである。しかも、各人の「生い立ち」「家族状況」「地域的背景」「住居域」もまるで「かけ離れていた」のだが、私たちは突然それまでの「付き合い」「帰属域」から袂を別って、「何か」を見つけに「キャバ研」を名乗って「出発」したのであった。
 本編に入ってゆけば解ってもらえると思うが、私たちは、その「幼児期」も「学生期」も「帰属してきた経歴」も様々であり、各々「その時々に自分成りに、そこにおいて何らかの参加・表現(1)をしてきた」ことを自分として「視つめてみよう」という一点において、現在「共通の場」を開らいているのである。
 〈この「自分を視つめてみる」という「共有作業」を、何故しようと思ったのか〉について説明してみたい。「自分を視る」という提起は、私たちにとって「二十年成りの自己の変転過程」を「凝縮した形」で「視通してみよう」ということを意味しており、「各場面への思い入れ(ノスタルジー)」とは異なる所から発想されている。「ノスタルジー」、それも「自慢話」の類いや「自己の美化・正当化・脚色アレンジされたドラマギー」などとは、全く「正反対の試み」を考えている。と言って「自己の醜悪化」を計る、ある種の文学的抒情に加担しようとも思っていない。
 そのどちらも「ある特定の自分らしさ」「現在の自己像のデッサンへの集中」に脈を通じた「退屈な物語」であったことを、私たちは知っている。よく想い起こせば、自分が「年令と空間」に応じて、様々な生命の営み、経験や姿を取っていたことが解かり、「単一の自己像」や「よく言われる二面性」位では、自己(経験)が把え切れないと思うのだ。
 「出筆」の「動機」として私たちは、「各人各様の「自己観」「現在の自己の成り立ちに関する、ある種の『連続性』『因果性』を持ちこんだ自己神話」を持っていて、それがどうしても「自分を縮めてしまう」ようなものだと気づき、そうした「繰り返し自分にも友人たちにも語り聞かせる自己神話」から脱出したいと感じることがあげられると思う。それと共に、より大きく見た時、「繰り返し繰り返し立ち現われる自分」といった「習性的な」「ジレンマ」の如く思えるもの、「友達や他者と付き合うと「いつもそうなっていってしまう自分」の「関係式」のようなもの、それを問題とし、直視してみようという意図がある。」
 日々「繰り返されている」「自分に語り聞かせる自分」という「悪しき呪文・こわれたラジオの如きもの」に、自己が管理されるなど、たまらないことだ。そうしている内に、より「自己をむしばんでいる」無意識の習性・自己撞着の原因追求が「霞んで」ゆくことは、さらに耐え難いことだ。「この二重の疎外、自己を不在化したまま「自己証明」書作りにはげむようなサイクルに、ストップをかけ、「視覚化しえぬ」自我の習性構造を「視る」にはどうしたらよいのだろうか、と私たちは問う。」
 一つには、「その場で取りおさえる」と言うに適しい「現在の自己の客体化――現象学的還元や精神分析の方法にヒントを見る――があり、今一つの道として、「自伝」的ないし「告白」的な「自己歴史体験の報告書」があったと思う。前者は、「素早く」そして「より直接的に」自己にかかわり、絶えず「自己が視えている」状態へ向い、一つの「有り方」として存在するので、「行為し、他者にかかわろうとし、無意識裡に自己をすすめている」通常の状態(自己状況)と一線隔たりを感じる。「意識をそのものとして記述する」現象学的なアプローチと「発想の動機を問い、象徴論的に解釈する」精神分析のアプローチとでは、「自己の客体化」作業でも「切り開かれる」所が異なる。
 しかし、「現在の自己」の成立を「過去」に問い、自己の歴史的過程を追って「現在の自己構造」を把えるという作業は、フロイトにおいては科学として「精神分析学理論」に結晶したが、洋の東西・古今を問わず行なわれていたことでもあった。ガンジーの「自伝」、アウグスティヌスやルソーの「告白」最近ではエルドリッジ・クリーバー(2)などのものによく示されている通りであると思う。
 何故、その人はそう成ったのか、という人間への関心・趣味は人類普遍的なものかも知れない。「伝記」「評伝」「生活史研究」といったものは、絶えず現われる。 トルーマン・カポーティの「冷血」(3)やJ・スタロバンスキーの「ルソー・透明と障害」などは、他者の歴史に関する他者の研究として、第一級のものに思われる。
 「新たな目」で視るという面では、解釈のベースを持った「精神分析学」や「現存在分析」のものよりも「小説作品」に習べるといえるかも知れないし、「治療効果というものに絶えずハネ帰ってゆく「象徴分析」をもって「人生を象徴学する」精神分析学理論は、「新旧にかかわらず、人間の自己構造」解明に他の諸研究とは決定的に異質な次元をはらんで、私たちに「有意なもの」として存在していると言えるかも知れない。
 今日、「無意識」の研究は広汎かつ多角的に――レビィ=ストロース、マーシャル・マクルーハン、ミシェル・フーコーと――掘り下げられているといえるが、それらすべての学究も又、「他者の自己客体化作業」からの所産である故に、自己目的的にそうした学究にかかわるのは、「自己不在」の営みでもあると思う。「私たちは、私たち自身の「内なる目」で「自分という生の素材」を扱うことをもって、「自己を無意識裡に支配している習性構造」を探り、「自分が自分から習ぶ」という「基本的自立」の第一歩を始めてみたいと考える。」
 自分にとって、自分を最もよき「理解者」「判定者」となるためには、自己の経験過程を自分として「視通す」必要があり、「ダメな自分」を「ダメな自分」として認める勇気に挑戦することが、この作業過程で問われると認識する。つまり、現在「ダメである自分」「真に自己が出発しうる地点・地平が現在ない」という正直な思いから、「キャバ研」はこの作業に取りかかったのである。
 確かに、私たちは、レインの言う如く「内側に行くことも外側に行くことも自ら疎外している」風化した自我の持ち主たちである。
 それは、「内部世界が未知で、恐怖で、周囲からどう思われるだろうかと心配して、内部世界への旅も充分に挑戦できない」という意味と「外部空間へ向うのも又、恐怖で何をされるか解らないと、ただ要心して身構える準備ばかりで消耗しきっている」という意味であり、「現代っ子」の「自己構造」と言えるかも知れない。
 しかし又、「受験勉強」的サイクルに完全に同周波化して、「内部宇宙」にも「外部宇宙」にも実は自己が実在の挑戦をしていないことに「無意識」で生きている人間たちと異なる地点として、そうした「自己状況」にあることを認めた「不在の自覚」が始まった分、むしろ私たちは「正常の道」(4)を一歩々々歩みだしていると思う。
 真に自己が出発しうる地点・地平がもたらされるために、私たちは「自己に降りて行く」のであり、自分が自己像と同化しようとする自我同一性の営みなどではない。丸がかえに自己を抱きしめたい故に、パックリ開いている「傷口」をさらに拡げて、直視しに行くのであり、「自己の合理化」も「対面意識」(5)も「クソ」もない所へいってしまう作業である。とても恥かしくて言えないような、どうしようもなく「精神的に苦痛なこと」も入って来るだろうし、「ひとりほくそ笑んで来た」勝利の美酒の如き「隠し事」もはらまれるだろう。
 と言っても、私たちの「ストリップ作業」は、「見せびらかし」とか、「マゾヒスティックな露出症的なもの」や「スキャンダラスな意図」とは、全面的に正反対である。一人一人が「自己をつかみ取って来る」に際して「傷つく」のではなく、始めから「現在、実は傷まるけになって、それでも演出・演技していた道化さかげん」を確認するという意味で「傷口を直視しに行く」のである。決して、「焼けのやんぱち」「自暴自棄」「自虐的趣味」などではなく、その「傷」の意味を把える「自己に関する戦士」宣言なのである。
 「「悲惨な傷」と「快感な体験」の両面性が変転して来た「自己歴史体験」の底に、「ゆったりと流れている自己の習性(深層)構造」を解明(客体化)することが、「経験の天文学」の目指す所であり、各人の「独自性」と共に「共通構造」が抽出されたり、「自己構造」の抽出によって「社会構造」が照らし返されるといった作業は、私たちの「共同討議プロセス」からはじまるだろう。」

 〈なぜ、私たちは「経験の天文学」などというタイトルの本を書こうと思うのか?そして、なぜ、「経験」は「天文学される」のだろうか?〉
 前者の疑問に答える前に、後半の方から先ず「解き明し」てみたい。すでに遠く忘れ去られた「幼児の感覚世界・知覚のダイナミズム」があったと私たちは思う。それは、余りに「社会化する過程」で「忘れ去られてしまっている」が、子供たちを観察していると次のようなことが思われるからなのだ。
 ジュータンの上で海水浴したり、階段を登山したり、喫茶店を隠れんぼうの遊戯場にしたり、ママごと遊びで様々な役柄をすぐに交互に演じ切ったり、やめたりしている、子供たちの姿に、私たちは 「経験の豊かな姿」を視るのである。
 今日、私たちは「このようなこと」を「経験できるだろうか?」と問いかけると、戸惑いを感じる。生死を賭けて、必死に岸壁にしがみつきながら幾夜もかけて「ロッククライミングする」プロの姿。幾日も頭を悩ませ、練習に練習を組み重ねてやっと築く「演劇の役者」の姿。ただひたすら「義務」に生き「座り続けている」ような大多数の人々。大人の(社会化した子供の)姿は、みじめな程、「体験や経験の豊かさ」と「かけ離れている」と、私たちは観察する。
 この「幼児の豊かさ」と「大人の貧しさ」の対照の中間地帯に、私たち「学生―青春期の人々」が存在しているのであるが、その「学生たち」も大多数は、「白気切り」「大人びて」「義務生活者」と化して、この大問題にとり組もうとはしない。無論、「大問題とは、「子供にとっては容易なエクスタシー体験世界」と「大人にとっては難儀なそれ」との両極化した今日の「人類の基本矛盾」のことである。」 私たちの語っている「問題」は二重に誤解されてしまうかも知れない。一つは〈「幼児返り」を求めているのか?それは「社会に出たくない」「労働したくない」という「甘え=幼児性」ではないか?〉ということである。いずれも全く「見当はずれではない」と認める。しかし、その意味は全く逆だろうと思う。
 「幼児返り」といっても、「擬似親族的」に、「兄貴、弟よ」とか「あねさん、ママ」「オヤジ」といった「甘えのゲーム」のことを言っていないし、精神分析学的に厳密な「意味」で「退行」のことを言っているのではない。「幼児」を「装おう」ことと、「幼児の感覚・知覚している世界を自己に呼び戻す」こととは異なるし、ましてや「幼児的な自我妄想に執われた病者」とも異なるものだ。「幼児のように振まう」でもなく、「自我分裂の過程で夢見られる狭い妄想世界」でもなく、「幼児が感覚としている所」そのものへ「戻る」ことを、私たちは「幼児返り」と名付けて、それを「勧めている」と認めていいという意味である。
 〈問題は、そうした「幼児期の感覚・知覚能力」をもったまま、「社会生活」しうるかという所にやって来る。〉「精神的エクスタシー(6)のない」社会人として、「一生」を夢(それも悪夢)として生きてゆくことと、「精神的エクスタシーを追求」して「社会創造」(7)することの対照になるかも知れない。
 いや、俺は「精神的エクスタシー」「自己追求能力」「目標感」を持って生きていると言いかえす「文明のスーパーマン・ポパイ」のような人もいるかも知れない。「上下・優劣比較表」を持って、あいつよりは俺の方が「ましだ」などという、尺度の狭さに気づかず、自己の狭まった「意識生活」を客観することもなく、「仮面自我」に生きる人々には、私たちの声はとどかないのかも知れない。
 あるいは、「周辺的」「自己の一定化した付き合い」の中で、「合理・正当化しよう」として、「地球次元の思考」などと始めから縁のない顔をした人々がいるかも知れない。
 逆に、俺たちこそ「世界的・国際的問題について知っているんだ」と変に「戦闘的な」人々がいて、単なる「自己妄想的恐怖心」から「世界や自国の危機」を訴える、「人類史の巨大な流れを知覚する神経細胞」がない人々もいるかも知れない。
 (こういった「人々と社会」の「深層構造論」は、本書の意図ではないので、)話を先に進めてゆこう。私たちは、「経験」を「天文学」的に観察する、ということを今少し明確にしてゆく。「丁度、天体観測の如く、「自己の経験してきたこと」が、科学されるとは、ある「場面」をフォーカス(焦点化)して、ズーム・アップ(拡大)された姿で正確に「その運航・配置」を視ると共に、特定の「場面」ばかりに「こだわって」ないで、「全体の配置・運航」を見るために、望遠鏡を動かしてゆくという、両方を試みることで成り立つのである。」いかに、その「特定の星座群」が面白かろうと、辛かろうと、そこばかり視ているのは「変態」だと思うし、莫然とながめやっていると、ついつい「神話」的に「星々の配置」に「物語」を付けて、創作してしまうから、「ジックリ」視てしまうことも必要である、ということだ。
 そして、天体(経験)全体の基本的(配置と運航)を、先ず「豊富」にもりこんでみる「具体記述」から入る。そこで、「コペルニクス的転回」として、「現在の自己の構造」が、その「変転してきた自己の歴史体験プロセス」より「照らし出される」「解明」の作業に入ってゆこうと思う。習性構造としてある「視えざる」自我を、自己歴史体験に「ウッスラと透し視える比較的に一貫した深層構造」を発見することによって、「意識化(視る)」してみようと思うのです。
 「自己が現在「生きてゆける」ということは、「現在の社会構造」に同化できる「自己構造」を持っているということであるから、「社会(人類社会)」が今日「かくなるまで経験してきた」二十万年、四十万年成りの「歴史体験」と、自己の二十年成りの「歴史」体験とは、同じ「構造」を持っている(8)だろうと思う、自分を視るという作業の中から「現代の人類社会構造」も又、知覚・意識化できると考える。」
 では、前述した「問い」に答えよう。 経験を天文学する必要は、一つには「余りにも近接過去の特定経験につまづき」今日、自己がその「特定経験」(家庭の不幸、失恋、脱落、敗北、屈辱などが多いと思う)にばかり「とらわれて」、自己世界を、挑戦・開発的意欲をはぎとられてしまいがちな、「自己状況」を視るからである。 そして、「より積極的な「必要」ないし「意味」は、「経験体としての自己」が「天文学」的に「莫大な」「経験・エクスタシー・体験」を日々味わうような「生命エロス」を提起したいという「願い」から由来している。
 確かに、私たちは幼い頃より、親の体面感覚・自意識に合わせるよう「行儀よく」とか、将来を考えてといった愛の暴力で「テレビは卒業ね」「勉強は?」と「規制」を受けて来たのであるが、その時「全く受動的にあった」のではなく、「何らかの型で能動的(9)にも参加して来た」ことを想い出す。そして又、「私語を慎め」「静かにしろ」と教室空間で静止のスタイルを学習させられてきたのであるが、これら様々の「社会化過程」の結末として今日ある「自己の姿」と、その延長に予期される「社会生活および社会性」とに、「NO」と主張する「内なる自己」の方に「正しさを」を感じる。(10)
 私たちが「社会のことを知覚・想像する」ということは、私たちの側に「受け取る能力」を開発・所有しているからであり、その「受けとる、受け取り方」が今日「企画品」化していることに「病態」を見る。私たちの側に「受け止め方」を「自発的に決定する能力」が失われていることが、「社会的諸事象・諸事件」の「受け止め方」を管理・提供する情報産業を「需要」させているのである。又、CM広告産業が「流行や同一性を創り出し」「価値や共通標識・会話の素材を提供する」ということは、「自ら創り出す」感覚や挑戦・冒険心が私たちの側にやはり失われていることを表わしているだろう。
 与えられた目標を達成する能力や義務的―習性的生き方ばかりを開発させる「受験制度」にあって、自ら目標を創り出す能動的、自己挑戦的能力の失われた「受験生たち」によって、こうした産業は増々支えられてゆくだろうし、「与えられないと動けぬ」「与えられても、受け止め方を教わらないと反応できぬ」受験エリートが「医師」「番人」「官僚」となるのであった。
 それに加えて、昼間「義務」に生き、夜間「抑圧されていた自尊自我」を体験しに「水商売」のコーナーに行く「社会人」の基本リズムは、大学生において「家庭」(幼児期)と「学校」(社会生活)の中間地に「喫茶店」という「精神安定場」を持つことに表現されているのを見る。アメリカにおける「精神カウセリング場」が、日本の「コーヒー専門店」にあたり、そこでは「擬似親族」的安心感と「営業の論理」の両面で付き合うことが成され、「無意識(家庭)的にも「意識(社会)」的にも付き合える「イージー・リスニング」コーナーとして、日本の「精神病者たち」の安全弁となった。
 原始社会においては、「逸脱者・札つき人間」は「道化師」という「就職口」をもち、「精神病者」は「シャーマン」という「社会的地位」に向うという「豊かさ」があったが、現代社会においては、「逸脱者」は「牢獄」に、「弱者」は「病院」に管理・隔離されてしまう。そして、「逸脱者」と「病弱者」という「社会生活拒絶者」たちと付き合う「医師・法の番人」が「受験エリート」として「盲目的社会同調者」であるのは、極端な逆説である。そこに「互いの理解過程」「対等な(11)付き合い」がスパークするか否かが、現代社会の「鍵」の一つかも知れない。
 病院産業(新興宗教も含めて)とCM産業(情報産業一般も含め)の今日的拡張とクロスして、「高度成長」と共に隆起して来た、「受験産業」「キャバレー産業」についてみてみよう。戦後の物不足体験(12)を経た両親世代は、「生活保証欲求」への過度の集中から「学歴有優利」思想を作り上げ、「受験産業」を「需要」し、昼の義務的生活に押しやられた「自我」のために、「キャバレー産業」を「需要」した。 そして、「自我」の「能動的―欲動感」を忘れ、「義務労働」に同化するのに、「受験産業」程適わしいものはなく、その「思春期も青春期」も不在にさせる「受験勉強」の裏で、「発育不全になった自我」が「オナニー」を「隠し事」として自己追求する習性そのままで、女性と関係を持せる場に、「キャバレー」は変質していった。従って「キャバレー」が「性器産業」化(ピンク化)してゆく「社会的需要」は、「受験世代」にある。 本質として、「キャバレー」が「宴会産業」と「性器産業」との中間性を持っていることを、私たちはTVB(ハワイ・モナチェーン等)、根本観光(クインビー)、大洋観光(しにせのチャイナタウン)の首脳部との討議で確認した故に、「オナニズムとして女性と関係しようとする」「発育不全の自我」及び、「それを又隠し事的に自己追求する自尊心の歪み」によって、「キャバレー」の「ピンク化」があると見る。 (宴会産業の面と性器産業の面とを対比した図を略記してみる。資料@)
 こうした「現代産業構造論」は一まず置いて、私たちの営みにヒントを与える「精神分析」について少しく私たちの目で見てみる。
 「精神分析学」とは、精神(自己)を分析する学問である。その「理論」とは、人間の心理現象の習性を「取り出す」所から始まり、先ず「通常理解されない一群の人々」の姿と出会ったフロイトが、「その姿」を「支配しているもの」は、何かと問い出した過程に由来を持つ。 その人々は、「神経症」つまり「ノイローゼ」を持つ「人々」と「名付けネーミング」られていた。
 「神経症」と呼ばれた人々の状態が、自らは気づかずに「何かしている」――行為と呼ばれるものではなく観察者には「その苦悩の表情」とか「ジッとしている姿」「かすかな反応」といった「姿」――と推測されるに至り、その現象を「無意識」と呼んだ。(ヒステリー研究の過程や、有名な「催眠療法」のことや「性欲」に関する幾つかの着想を持たらすに至る「愚者」と呼ばれる人々との一連の出来事については、専門家にまかせる。)
 自らの「思索生活」をしている内に、自分が色々と「空想」したり、「想定」したり、「自分一人で議論している内的過程」を生きたりしていることに気づくが、その「内容」が漏れてしまったり、「解らなくなってしまう」といことに、フロイトは目を向け、「通常」と呼ばれる人々にも、そうした「無意識的なもの」があるだろうと、時分を見て推測し、次第に「無意識」の研究は拡張されていった。 夢、言い違い、し損ない、忘れ物、度忘れ等々。
 決定的に「何かが起こっている」と直感したフロイトは、その「何か」に当るものを「表現(意識)にもたらそう」とし、相手の「していること」を「意識にもたらそう」と、果しない「推論―検証」の挑戦が組まれていった。折しも、その過程で「ヒステリー」と呼ばれた「現象」の「原因」を、「性欲」に関係したものとして、「学会」に発表し、「ひんしゅく」を買い、幸運にも「孤立」のチャンスがやってきた。 「孤立した自己に向い合う」ことは、フロイトに「内なるものの追求」を急がせ、自らも「内部の葛藤・混乱」に向い始めたのであった。 これは、「ユング」にも、「エリクソン」にも、「ラカン」にも恐らく推測される「孤立化過程」での「無意識的なものへの洞察」の時期であったとも言える。
 さて、「精神分析学」は、神経症と呼ばれる「無意識」的な「心理過程・構造」について研究する学問であったことが理解されると思う。単適に言えば、「精神分析学理論」とは、「神経症の構造及び過程」を表現したものである。神経症=精神分析学理論である。しかし、その意味は、「病者」と呼ばれる人は、「神経症」に「無意識的」で、「精神分析学理論」とは、その「無意識」的に「病者」によって行なわれている「神経症」そのものを「表現(明確)化したもの」であるということであった。
 そこから、一つの「ジレンマ」が生ずる。
 「幾多のサンプル」から、その「支配的なもの」「共通したもの」を取り出して、「構造化したもの」が「理論」とすれば、さらに、その「共通して見られ、重要と見られる事柄」に「ネーミング(名付け)」をして「整理」する必要があった。その「ネーミング」が、「同一化」とか「転移」とか、「投影」「同一視」「反復強迫」「代償」などという「用語」になって行った。そして、後継者たち及び読者は、先ずその「用語」を「受け入れ」、「理論」を知ろうとし、「用語」と「理論」つまり「単語」と「その説明」の関係化作業から入ってゆき、本来あった「内容」=「具体的事例・サンプル」たる「神経症」そのものの「主体的解明化作業」が後からやって来ることになった。後方の人々は、「用語」の「定義」、「理論」で議論し続け、フロイトは「理解されない」状況に直面し、「自己分析」を「弟子たち」に突きつけ始めた。(それ故に、他方で「具体的記述」を志向する「現象学」を取り入れた一群の人々――ヤスパース、ミンコフスキー、サリバン、ビンスワンガー、ボス、レイン等――が現われたと言っては、言い過ぎだろうか?)
 その頃には、「転移」と呼ばれる「無意識裡の依存」や、「抵抗」と呼ばれる「理解されることを拒むこと」などの研究が深まり、「人間関係の深層構造」について知識し出したフロイトは、「弟子たちとの間柄」(13)にも、その「知恵」を用い「依存心と自立」のビジョンを持って、弟子たちに「自己分析過程」を持たらすよう自らの「有り方」をコントロールし(14)始めたのであった。
 つまり、フロイトは、「神経症」というものを二分して、一つを「患者」と呼ばれる人に、今一つを「通常の人々」そして「社会性」に当てはめ出したのである。「患者」と呼ばれる人々が、「患者」となる「原因」を「幼児期」の「重大な精神的ショックをもたらした出来事」に見い出し、「現在の病的表現」の意味と意図とを「過去の記憶喪失した出来事」から由来することを説き、「人生の象徴学」と言える側面を明らかにしたのが前者の部分である。それと共に「社会」というものを、「共通の神経症構造」を持った人々が構成しているという後半の部分を構想し、「弟子たち」も又「社会化した神経症者」として見つめなければならないと気づいた。
 「弟子たち」にその「神経症を真に理解してもらう」ために、「標本観察」や「医師の立場の研究」ではダメだと知り、「弟子たちを神経症の世界に誘い込もう」としたと言える。それは「精神分析」の「デモーニッシュな部分」であり、かつ「真の愛」として「弟子たち自身の無意識で、社会化されて『正常だ』と思わせている神経症」に直面させて、「自立」を問いかけたことを意味する。「社会化され、正常だと思っている」自分から、「神経症者」と呼ばれている人々の落ち入っている状態(自己状況)の方へスウィッチさせ、自立を迫ることである。
 しかし、それは言い過ぎだろう。(本来そうあるべきものとして書き過ぎているかも知れないという意味で。)フロイト自身、どこまでその「間柄」を具体化したかは測り得ないとも思うから。と言って、その後「ラカン」「エリクソン」「レイン」といった人々に、その伝統が宿っていると直観してやまない。その「間柄」の「変質スウィッチ」を、「関係論的関係」(無意識であり、正常と言われる段階)から、平行論的同一性へ」と呼んでみたい。その中間=移行過程を「関係論的関係の渇望」ないし、「関係論的関係妄想」の進行と名付ける。
 「関係論的関係」とは、「立場」とか「上下関係」といった「互いの役割性を互いに築き上げた上でのコミュニケーション」のことである。その中には、「目つき」や「眼差し」「ニュアンス」で、「同意を求め」たり、「他者に要求する」ようなサイクルが、互いに「演じられる」暗黙のルールのようなものが入る。あるいは、一人決め的な「私はこんなにあなたのことを愛しているのに、あなたは少しも私のことを愛してくれないなんて薄情だわ、でもそんな関係でもいいの」といった比喩口調でしか言えない「無意識の想定ゲーム」であり、互いの間で一度確認されると有効な略記号コミュニケーションとなり、「互いを拘束しあう」システムのことでもある。
 こうした「関係式」を誰しも持っているか、孤絶の過程では、この「関係式」が対象を失ない、空回りし「妄想」と化してゆくのである。最后に、これまでの「述解」を要約した図を提出して、締めくくりに入りたいと思う。(資料A)
 たいていの「議論屋」は、「用語」と「理論」の間を往復する。(まれに、治療実践で「象徴分析」が功を奏し、その仮設の構造を把む人もいる。)私たちの地平は、「実際」へと深く内部ドリルすることであり、「再び浮上する」(15)自ずのプロセスに到るまで徹底して「自我分解する地獄プロセス体験」「自己分析のバッド・トリップ」に挑戦し続ける方向にある。この営みと一脈通じる人々の証言を列記してみよう。
 イギリス精神医学界の異端・造反者でもあり、分裂症研究の第一級のプロフェッショナルとして寄与する所多大なR・D・レインは、「分裂症」を「自然な旅」と認識するに致り、医師の干渉・周囲の無理解こそ、その旅を「邪魔」し、「病人」にさせてしまうと告発した。そして、あるべき姿として、彼は「前―患者が将来の患者が狂気になることを援助しようということを意味することになるでしょう。」(経験の政治学 百三十五頁)と、(事もなげに)言う。
 そして又、フランス構造主義の主柱とも言うべき、ミシェル・フーコーは、狂気を文化―社会的に肯定的なものであると、その莫大な「歴史的研究」から説き起こし、狂気を「隔絶」し、「否定的なもの」とした社会の方がクレージーなのだという。
 「十七世紀半ばに、突然、変化がおこった。狂気の世界は疎外の世界となる。(中略)あんなにも長い間にわたって顕在し、饒舌あった狂気。(16)あんなにも長い間、地平の上に現前していた狂気が姿を消してしまったのである。狂気は今や沈黙の時期にはいり、長い間そこから出て来ないことになる。狂気はその言葉を奪われ、他人が狂気について語りつづけたとしても、狂気が自らについて語ることは不可能となる。少なくともフロイトまでは・・・・。」(精神疾患と心理学 P119〜P121)
 勿論、狂気が疎外となったのは、「隔離収容」が始まったからであり、フーコーの大著「狂気の歴史」の冒頭において、「シェークスピア」が第一級の「狂気作家」として正当に評価されている。「狂気」なしに、「シェークスピアの作品」が成り立たないと見抜く彼は、「言葉と物」という今一つの大著において、「時代・社会に無意識に存在する尺度」を「エピステーメー」(17)と呼び、その「解明」を通して、いかに今日の「社会」がクレージーに「狭い意識生活」を強要されているかを暴く。
 さらに、フランスにおいても難解と言われる、施精神分析医・ジャック・ラカンは、次の如く語る。
 「主体から主体へという訴えをわれわれが維持するなかで、精神分析は患者を《これこそ君だ》というギリギリの限界まで伴っていくことができ、そこで彼の死すべき運命の暗号が示されるわけなのですが、しかし、本当の旅がはじまるこの瞬間まで患者をみちびいてゆくのは、実地家としてのわれわれの力だけでは及ばないのです。」(エクリ P133)
 本当の旅が始まるこの瞬間までの「旅」を「精神分裂症」と呼んでいるのであり、「これこそ君だ」とは、ウパニシャッドやバガバッド・ギーターに見られるヒンズー教の有名な章句である。
 最后に、今やアメリカの知性をマクルーハンと二分すると言っても過言ではない、E・H・エリクソンは、その「洞察」の真只中にポロリと自己体験(18)をもらして言う。
 「『イド』として体験されるものは、何か身近なもの、従順ですらあるものにならねばならず、しかも最大限におもしろいものにならねばならない。」(アイデンティティ P308)
 イドとは、フロイトが人間の「無意識的幻想生活の古層」として名付けた領域があり、分裂症(19)、つまり自我の崩壊にある人間が「超自我」という「命令し、観察する」部分と共に下から吹き出すようなものとして経験されるものである。彼も又、レイン、ユング、フロイト、ラカン等と同様、そのプロセスを体験して、「面白いものに」と言いうる所までやって来たことのある人間なのである。
 余りに、日本の「知的―体験的―挑戦勇気の質的」な面での「後進国」にあって、私たちの「思想的営み」が、実は「汎地球的知性」と脈絡を通じ合っていることが、「理解されない」のかも知れないが、私たちはこの「不具社会」(20)の内臓からガン細胞と化して(21)、「病」の「内的原因追求」を開始する。
 狂った社会に同化しないことを「正常への道標」とし、自己のクレージーを自己体験しながら自分で直してゆく所から、私たちの「出会い」は再軍備過程(22)に入ってゆくのである。(参考として言いたいこととして、狂った社会にシンボリズムなどなく、精神病者たる現代人全ての一人一人に、「病のシンボリズム」があるのであって、美しきレビィ=ストロースの「シンボリズム」に感応する心像を自己開発することと、自れの「内部」に満載された「病のシンボリズム」を意識化し、客観を迫ることとは、相互に重要であると思う。
 幼児期と言われる部分は、最も重要な過程であり、自我と世界観の祖形に当ると言われているが、私たちにとっては、いかなる「光景」「印象」が記憶にあるのか、途中で「創り出されたもの」なのか、正確でない所も多い。又、両親や親族・ゆかりのあった人たちの「話」から「想定」している所もある。
 そこで、私たちは、「正確に記憶しているもの」の抽出と、証言録より「行動・姿」に関する所とを合わせて、記述することにする。 児童期に関しては、――小学校時代――、記憶が明晰である部分(勿論、意識探求とふとした時に思い出したところとよく覚えている所を合せて)が多く、「作文」「通信簿」といった「古文書」や「絵画」「工作物」といった「作品群」も次第に現われて来るので、むしろ「何を重要なもの」とし、「何を重要でない」とするかの判断基準が、「現代の自己観」ないし「思い入れ」によって曇ることに、より注意を払うことになる。ここでは、「行為」に焦点を合せ、「心理表現」を削ってみる必要があるだろう。それは、「神話化」よりも「歴史的考証」の手法を先ず取り、「美化―醜化」の「過去への現在の思い入れ」をはぐ作業が重要であると考えるからである。(無論、マクルーハンの言う通り、永い歴史過程を凝縮して表現(比喩)化したものが「神話」(23)であるという解釈の妥当性を知る故に、先ず「標本」を豊富に並べる必要があるという考えを含んでいるが)
 次に学生期(中学・高校時代)に関しては、近接過去であるので、増々「記憶・記録」の量は拡大し、「日記・手帳・文章」を始めとし、「作品」と呼びうる「記念碑」などが「輝しいページ」と「惨めなページ」を入り混じらせるのを一層進める。又、「文学」や「認識論書」、「感銘を持った物・人」「その時においてバイブルであった所のもの」が、幾つかの「生活の結び目」の如く現われ、今日まで「連続性ないし連続感」を持って説かれる可能性もある。
 しかし、私たちの「出発的思想」=「思想的出発」として、これまでの「意識的な思考」「連続性への思い入れ」「自己神話」ではどうしても「自分を丸抱え」にできなかったという思いから誕生した、この「自己過程の想起」作業は、「思想の影響」「認識論書への情緒的反応」も客体化するため、一度それらをはなれてみる。多分に、「思想」と関係ない営み、社会性、労働性に係わりのない営みとして、単なる遊びと呼ばれる「クラブ・発表行為・オナニー・事件・役割等」といった中に、自己活動を視、それと平行して、思想的なもの――人生論であろうと、世界―社会観的なものであろうと――なりの「登場過程・変転過程」を、「出会いと変貌・消滅」を追跡してみたい。
 こうして、いよいよ「現在」に直結している「青春期」に向う。各人「特有」の「経験事象」「経験の仕方」「経験の描き方」があると思うので、一応の「想起の手掛り」として、以下「経験」の目録を略記して序論を終えたいと思う。地域的特性、経済事情、家族関係、家屋構造、変歴(又は定着)具合、遊戯様式、遊び仲間での位置、病気、癖、食事作法、食物、遊び道具、教室空間、学級内政治、催眠事情、旅行、初恋、恋愛プロセス、オナニー状況、ケンカ、成績、クラブ、発表行為、イタズラ、話題、趣味、犯行、失意体験、恐怖体験、エクスタシー体験、願望、憧れ、幼児性欲活動、自尊心(その屈辱体験)、自分にとってのバイブル(師匠)変歴、空想内容の変歴、想像的なもの、読書、諸媒体との係わり、夢の生活、造反、失敗、諸情緒体験、罪意識、倫理性、友情変歴、ナルシズムの具合、友人関係、昼と夜、矛盾性、議論、etc。
それでは、各人の「他面な相」と「変転プロセス」の「歴史的考証」「具体記述」と「深層構造」「現在の自己構造」の解明編へ。


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主体化=「能動の嘘」とも思う。心理的原因現象は、受動的なものだから。
クリーバーは、イメージにおいて、「造反有理」を行なっているだけで、「弁証法の」錯覚的想像力の見本と思う。
今は、カポーティの攻撃性の精神外優遊説を疑っている。主人公の逆のパターンを相棒が持っていると思う。両方を描かないと真実とは、思えない。「冷血」自体は、救いのない小説と思う。
自分で、自分を「正常」と言う訳にはいかないと思う。
今は、対面意識も重要と思う。
私の論旨は、「身体的エクスタシー」と思う。
「社会創造」は、一人でできんいと思う。最低でも、三人は必要だろう。ここも、「能動の嘘」と言うべきか?
系統発生=個体発生という訳だ。アートマン=ブラーフマンという訳だ。(不二一元論とも言うか?)
主体論的に見える。能動でない経験もあると思う。その方が、心理的事件(原因)と思う。
ヒッピーのDrop-Outって感じ。
対等ではなく、保証の関係と思う。
エディプスの問題。KATOに借りている。歴史観。
教育分析を導入(発明)したのは、フェレンツィだと知った。
補足:「シビル」がある今日、フェレンツィの見事な分裂の記述も、古いだろうか。
コントロールしないようにしたと思う節もある。
自然説の一種。狂気を通って、正気が鋭くなる人もいれば、狂気のまま死んでゆく人もいると考えられる。
今は、「外的狂気者」を認めていない。狂気は、「内的」でいい。
フーコーは、「エピステーメー」は、「文化的全体性」ではなく、「分散の記述」と定義したが。
体験と洞察の総合と思う。
分裂病は、超自我とエスの同盟だと言ったのは、N・O・ブラウンの「エロスとタナトス」だと思う。私の体制否定的論調は、ブラウンと似ていると思う。
差別用語ではなく、「現代産業構造論」で展開したもの(CM産業やキャバレー産業について語ったもの)を指す。
本当は、「白血球と化して」と言いたいが。
「一度打ちのめされた者が、もう一度外部を試みることだ。」エルンスト・ブロッホ『希望の原理』より。
デュメジル、レビィ=ストロースなどの神話分析の深さを今日知るが、ここでは、「要約」位の意味です。

資料@
〈キャバレーの両義性〉

  宴会産業性 性器産業性
恋愛対象 複数的 個人主義的
恋愛への態度 過程的 結末的
関係媒体 会話・シャレ・ジョーク 肉体・マスターベーション的
経験される事 魅力・全体満足 強制・自己満足

資料A
〈精神分析のジレンマと私たちの道〉

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