山沿いの道を走ると、削り出された岩肌に、ネットが被せられたり、モルタルが吹き付けられたりしている光景をしばしば目にする。こう言った場所には、大抵「落石注意」の標識がある。しかしながら、いちいち崖の上を気にしながら運転していたのでは、返って危険である。あの標識の指示通りに、注意を払いながら運転している車を、私は見たことがない。

あれでは、落石注意の標識自体が、その存在意義を問われ兼ねない。例え落石があったにせよ、ネットが張られ、モルタルが吹き付けられた山道では、誰も責めることは出来ない。そんなところに道を作る方が悪いし、通る方が悪い。だから正しくは、落石注意ではなく、「落石覚悟」なのである。

 このように、覚悟が必要な場所は、幾らでもある。「クマ出没注意」、これも実際は覚悟である。そもそも、クマが出没する場所に行く方が悪いのだ。だからそんな場所に行く時は、「覚悟」が必要なのである。 いやいや、人が住んでるとこにもクマは出没するぞ。そう言う反論が聞こえてきそうだが、それは違う。そこに住むこと自体、覚悟をしなくてはならないからである。

 現代人に足りないのは、この覚悟である。何時の頃からか、欧米型の文化に被れた日本人は、覚悟を忘れて権利を覚えた。安全に道路を通行できる権利、安全に暮らせる権利、何もかもが権利で正当化されていく。

 アメリカのファーストフード店で、コーヒーを買った女性が、車を運転しながらそれを飲もうとして、うっかり足の上に零してしまった。女性はそれによって負った火傷を、コーヒーが熱すぎた性だとして訴訟を起こし、見事勝訴したのである。はっきりとした金額は覚えていないが、確か億の単位の賠償金だった筈である。

 そんなもの、運転しながら飲もうとした方が、悪いに決まっている。しかしそこには、ドライブスルーで売っているものを、安全に飲む権利が存在する。それが欧米型文化なのである。では、日本文化ではどうかと言えば、車を運転しながら飲むのであれば、零れたときの参上は覚悟の上。こうなる筈である。

 昆虫採集をしていて、スズメバチに刺されたからといって、訴訟を起こしたとか、マムシに噛まれたのは、国や地方自治体の管理体制に問題があるからだ、などと言う話は聞いたことがない。

 責任を問うと云う事は、つまり経済である。経済とは実在ではない。「虚」である。実のところ責任なんて、本人以外に存在する訳がない。それを人が社会的集団生活を行う為に、他人に転換したものが現在の責任なのである。経済というのも、人が社会的集団生活を止めてしまえば、消えてなくなる。つまり「虚」である。

 そんなもの納得がいくか。

 ではもし、人が社会的集団生活を止めて、単独で生きていくとする。それこそ自然界の生き物と同等に暮らしたとしたらどうだろう。そこに他人の責任は存在するだろうか。たとえ山道で、暴君に身包み剥がされて殺されたところで、暴君の責任を問うことは、人間には出来ない。そこで人は、人を超越した何かの存在による裁きと救済を求めた。これもつまり「虚」である。この虚を守らんがために、人は社会的集団をつくり、生活をはじめた。その中で生まれたものが、経済であり、責任である。 つまるところ、生きるとはかくの如く「自己責任の上の覚悟」が必要なのである。

 昨今、賑やかなニートも、覚悟の無さから生じた問題である。人との付き合い、仕事という共同作業で社会を作る覚悟がない。なのに、人が作った社会で暮らして行きたい。そんな甘えがニートを生んだ。そして、それを許した。なぜ許したか。それが権利だからである。

 働かざるもの食うべからず。こういうと差別だと言う人もあろう。しかし、働かないのと働けないのは違う。ニートとは、働けるのに働かない人を指す。もし、人が社会を形成していなかったら、こんな奴はすぐにのたれ死ぬ。それならそれでもいいや。それもニートの覚悟ではないのか。そういう人もいるだろう。ここで間違えてはいけないのは、「覚悟」と「諦め」は違うということだ。

 覚悟とは、自分の置かれた状況を受け入れ、心構えを整えることである。一方、諦めとは自分の置かれた状況、並びに自己を放棄することである。この違いを語句の意味云々で語ってはいけない。それが、これらの語句の持つ含意ではないからである。

 この覚悟をすると云うことを、重々に理解した上で、人は自然と接して行かなくてはならない。そうしなければ、人は人としての権利で自然を捉え、本来の自然が見えなくなってしまうからだ。

 ある昆虫、或は動物が絶滅して行くとする。人は、それらの生物の覚悟を知らない。たとえば、日本の自然からとあるシジミチョウが消えようとしているとする。人は必死になって、そのシジミチョウの絶滅を防ごうとするだろう。最後の1頭になっても、人はその蝶にそのシジミチョウで在り続けることを強要する筈だ。シジミチョウが消える傍らで、新しくそのフィールドに舞う蝶が在っても、人はそれを受け入れないだろう。シジミチョウがシジミチョウで在り続けたいと思っているなんて、誰が理解出来様か。

 自然とは、流れであり、留まる形ではないのだ。その流れを受け入れる覚悟を持って、自然と接しなくては、本来の自然保護なんて在り得ないのではないのか。

 もちろん、人が原因で絶滅に追い遣られる生物に対しては、人は関与して救う必要もあるだろう。しかしそのときは、人は人としての権利、つまり「虚の経済」を捨てる覚悟が必要なのである。そして、他の生物と共有できる「実在の経済」を探ってこそ、真実の自然保護ができると、私は固く信じる。



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