昨今、いじめ問題がにぎやかだ。未だに聞こえる有識者の声に「今時のいじめ」がある。いじめは今も昔もいじめである。何も変わらない。

 いじめを学者が分析する。いじめとは何か。或はテレビゲームとの因果関係を訴え、或は社会性の問題を掲げる。まんざら的外れでもないが、どれも核心をついていない。これは、いじめの「なぜ」を考えることで見えてくる。

 なぜ人はいじめをするのか。それは生きるためである。集団の中で、自己が生き残るための手段としていじめを行うのである。こどもは自然に近いから、その本能とも言うべき傾向が顕著に現れるのだ。

 ここで注目すべきは、その集団の置かれた環境にある。人はそもそも自然の一部であるが、都市生活に於いては、極力自然を排除することによって、各個人の個性が浮彫りにされる。それを本能的に人は嫌う。なぜなら、曝け出された自己は、危険にさらされることを本能が知っているからである。それを他の自然、つまり他人に転化することによって、自己を見えづらく誤魔化すのである。様はカモフラージュである。それが証拠に、実際にいじめを行う者は自己を隠しいじめを行う。だから分かり辛いのである。そしてこう言った人間は、自然の動物同様、自己を飾る。或は色気づき、或は己を大きく見せようと飾る。そして、色も増さず、小さく見えるものをいじめる。

 言うなれば、都市化し切れていない極めて原始的な精神状態の人間が行う行動がいじめなのである。

 では、どうすればいじめは防げるのであろうか。その答えを私は、自然教育に求めた。こども達を自然に回帰させるのだ。そうすることによって、剥き出しになった自己を隠す。人が自然に心を癒されるのは、自然の一部である自己が「隠れる」ことができるからに他ならない。そうすれば必要以上にいじめを行う必要がない。それどころか、「助け合い」を求めてくるだろう。都市とは間逆に、剥き出しの自然環境に放り出されたら、人は癒されるどころか恐怖を感じるはずだ。

 なぜ人は剥き出しの自然に恐怖を感じるのであろうか。それは、自然が「生きること」を強要してくるからである。自然は「生きろ」とは言うが生かしてはくれない。自然界に於ける死とは、即他の生を意味するからである。このような環境では、人は助け合わなくては生きていけない。だからこそ他を認め、自己を全体の一部として認識することが出来るのだ。

 都市の中にいるだけでは、そのことが見えない。教育現場は田舎なほど良い。頭脳が教育の全てでないことを、今こそ深く知るべきである。生きると言うこと、それを身をもって体験させなくては、いじめを無くすことはできないだろう。如何にして、こどもの周りから都市を排除するか。そして、自然を増やして行くことが出来るかが、今後のこどもの生命観を左右するだろう。

 そして今現在、いじめを受けているこどもを救いたければ、自然豊かな環境に移ればいい。そのためなら、都市生活をすてる覚悟をするべきだ。いじめをしているこどもについても然り。日本の自然は所謂「剥き出しの自然」ではない。悉く人の手が加わっている自然である。それこそが里山であり、こころ癒されるやさしい自然なのである。これ以上、この豊かな日本の風土を都市化してはいけない。



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