今年は、既に二度雪が降っている.暖冬の年は雪が多いらしい.暖かい冬なのだから、当然雪は少ないだろう.そう思っていたが、どうやらそれは間違いのようである.
 暖かい冬は海面の温度も当然高い.すると、海上で暖められた湿った空気は、西高東低の気圧配置により東へと流れる.いくら暖冬とは言っても、そこはやはり冬である.大陸より張り出した寒気団に冷やされて、湿った空気は雪へと変わる.つまり暖冬は雪が多いのである.

 自然界では、雪が多くても一向に問題がない.雪が多くて困るのは、サルとシカと人間くらいである. 自然界の生き物たちは、雪が多かろうと少なかろうと、ただじっと、雪解けの春が来るのを待っているからである.雪が多くて困るのは、そんな時期だって活動している生き物だけである.つまり、サルとシカと人間なのである.
 サルとシカは起きているから腹が減る.いっそのこと、冬眠でもしていれば好いのに、餌を求めて歩き回る.だから腹が減る.全く馬鹿な生き物だ.と、思っている私は、腹が減ってもいないのに、わざわざ雪の山を歩く.だからもっと馬鹿なのである.

 当然ながらコルリクワガタは冬眠している.正確には凍っているのかも知れない.しかし、動かないから腹も減らない.言ってみれば、サルよりも、まして人間よりも頭が良い.
 私は、正しくは私たちは、腹が減っている訳でもないのに、雪山をクワガタを探して歩き回る.だから人から”くわ馬鹿”と呼ばれる.いや、自分達でそう言っている.人から馬鹿と言われて喜ぶ奴を”本当の馬鹿”と言う.釣り好きとクワガタ好き位なものである.
 
 
 自分が馬鹿だなんて、わざわざ他人に言われなくても、ちゃんと分かっている.だから自分たちでそう呼んでいる.自覚しているくらいだから諦める他はない.
 雪が降ったことは、分かっているし、積もっている事も容易に想像がつく.それでも、じっとしていられないくらい馬鹿になれば、いよいよ本物なのである.
 去年の今日は、一体なにをしていただろうか.やはりここに来ていた.しかも今年は、二人増えて三人になっている.もはや救いようが無い.
 
 人を取り巻く環境は面白いもので、どういう訳か同じ様な人が集まる.いつも怒っている様な人には、いつも怒っている様な人が集まり、いつも愚痴の言合いをしている.いつも笑っている人の周りには、いつも笑顔が絶えず、いつも朗らかである.いつも虫の話ばかりしている人の周りには、いつも虫の事しか考えられない人が集まり、いつもその辺で虫を探している.これを感応同行の原理という.森羅万象の理(ことわり)である.

 しかしながら、同じ境遇ゆえについ心配してしまう部分もある.家庭はどうなっているのだろうか.休みの度に、こんなところで虫捕りをしている旦那を、家族はどう思っているのか.もしや、私はこの人たちを、巻添えにしてはいないか.そう思うのである.
 しかし、それもやはり同じ境遇の人間なのであるから、どうやら心配は無用の様である.つまり、諦められている.・・のである.返って、一緒に行動してくれる人がいてくれて有難い.・・らしい.もしかして、良い事をしているのかも知れない.
 
 とりあえず行って見ましょう.そう言って来ては見たものの、やはり一面は雪景色・・.当り前である.
 しかし、そうでない部分もあったりする.必ずこう言った陽だまりがある.大抵の場合、そんな所ではコルリ材は見掛けない.何故かコルリ材は、湿った北斜面に多い.だから、今の時期は概ね凍っている.
 それでも、僅かな確立で見付るこんな場所で、懸命にコルリ材を探す.なぜか、それがまた楽しい.そしてこんな場所では、立枯れでルリ材を見付ける事ができる.
 コルリは落ち枝に産む.ルリは立枯れに産む.別にコルリ達に聞いた訳ではないが、何故かそう決まっている.
 
 ある日、私はここでヤマブドウの枯蔓にルリの産卵痕を見付けた.ヤマブドウの枯枝には、ホソツヤルリクワガタがよく産卵するらしい.しかしここは栃木県である.今のところ、本県にはホソツヤルリクワガタは棲息していないことになっている.
 しかし、ホソツヤルリクワガタに人間が引いた行政境など、見える筈もない.なぜなら、そんなもの引いた本人ですら見えないからである.
 別に此処にホソツヤが居たって、可笑しくもなんともないのである.それでもそれを否定したがる人もいる.別にホソツヤに聞いた訳でもなかろうに.
 人から聞いた結果や活字を無条件に信じ込む事は、極めて危険な事である.と、聞いた事がある.満更嘘でもないなと、私は思った.事実をその目で確かめる.それが大切なのである.
 コルリは落ち枝に産み、ルリは立枯れに産む.これも聞いた話を、自分で確かめた.だからコルリに聞いた訳でもないが、そうであると分かった.
 昆虫採集でフィールドに足を運ぶ.それがとても大切な事なのである.
 
 今回の採集では、コルリ採集ともうひとつ、楽しみにしていた事がある.今までは、ただ夢中で採集をしてきた.最近では、少し余所見をする余裕と言うか、ゆとり見たいなものが出てきた様である.
 ゆとり何てものは、初めから持てるものではない.はじめは、ただ我武者羅(がむしゃら)に取組む.そして、少しでも何か掴めたところで、初めて持てるのが”ゆとり”なのである.そう言った意味において、現在の”ゆとり教育”は間違っている.私はそう思う.ましてや、ゆとりなんて、人に作ってもらうものである筈がない.
 ある程度、この山を歩いて余所見ができる様になった今、そこに流れている清流は、とても魅力的に私には見えた.以前、採集記の中で紹介したことがあったと思うが、此の渓流の水は”飲めるくらいキレイ”なのである.この事実を知った当時、私は高校生であった.
 高校生の私は、実際にその水を飲んでみたいと思った.いや、飲めるほどキレイな水であれば、そこに直接素麺を流せる.本当の意味で”流し素麺”が楽しめるではないか.それを私たちは実行に移した.若気の至りである.
 まさか、今更そんな事をする筈もない.今回私がやりたかった事は”源流珈琲”である.あの当時、此処の水は、まだ名水とは呼ばれていなかった.今では他県より、わざわざこの水をくみに来る人がいるほどである.そこよりも500mは標高を上げたこの場所の清水で、珈琲を沸かして飲んでみたい.そう思ったのである.
 珈琲の味に特別うるさい訳でもないので、インスタントコーヒーでも構わないのだが、やはりここはレギュラーにしておこう.
 珈琲をレギュラーとしたのだから、次は豆だ.個人的にモカが好きなので、モカブレンドにした.珈琲にうるさい人でもこの文章を読んでいれば、きっと一言二言云いたい事もあるだろう.
 しかし私は、別段珈琲マニアでも何でもないので、この程度で充分なのだ.そんな私でも、エスプレッソケトルなんぞと言うヤカンの進化型を持っている.サイホン式も持ってはいるが、明らかに渓流に似合わない.だいいち持っていける筈がない.
 仮に持っていったとしても、アルコールランプなんかでは、お湯が沸騰するまでに果てしない時間を費やしてしまうだろう.
 ならば、ネルの布でドリップするのが一番お手頃だ.確かにそうだ.しかしここは喫茶店ではないので、イマイチ景色に馴染まない.だいいちそんな物、持っている訳がない.そんな訳で、多少重量はあるもののエスプレッソケトルにすることにした.
 これで渓流から汲んだ水で珈琲を沸かす.考えただけで楽しくなってくる.
 
 意気揚揚と山道を、一時間あまり掛けて登った.さて、それでは・・と思ったのだが、致命的なミスを犯していた.肝心のバーナーを車に置いて来てしまった様である.
 結局今回も、コルリ採集だけで山を下りる事になってしまった.山を下りて、名水ポイントまで来たところで、やっとエスプレッソに有り付くことができた.
 余裕をもって山を楽しむには、まだまだ修行が足らない様である.名水で煎れた苦いエスプレッソを口にしながら、そう思う三人であった.

〜 コルリと雪と一杯の珈琲 〜 [ 完 ]
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