昭和6年(1931年)栃木県栃木市大町に
肥料店を営む父龍太郎と母茂子の長男として
誕生
小さい頃から好奇心が強く、家の前に止った
荷馬車の馬腹を三輪車でくぐり抜け、父に大雷を
落とされたこともあった。だから、しょっ中手足に
なま傷が絶えず、よく病気もして、両親をいつも
ハラハラさせていたという。そんなわけで、幼稚園
には行っていない。
小学校6年間の思い出は、通称三小プール
(うづま川の上流をせき止めて造った天然プール)
で毎日泳いだことと、学校帰りの石合戦だった。
飛んでくるホンモノの小石をランドセルで防ぎなが
ら投げるので、野球も上手くなって、体もしっかり
した。
県立栃木中学への入学は昭和19年。翌20年
に日本敗戦。その年から始めたマラソン人生は
大学終了まで続いた。県下高校駅伝で6人抜きを
したり、満員のSLの機関車前部に陸上仲間3人で
腰掛け、佐野へ遠征。 列車を急停止させた汽関
士に怒鳴られ、降ろされかかったが、皆で平謝り
に謝って、やっと大会に参加できたこともある。
「教室に居なけりゃ、(陸上)部室へ行け。」と
言われたのは、一橋大学時代。マネージャーも兼
ねていた。このときも校内マラソン大会では2年
連勝。このマラソンに卒業後の不規則な記者生活
や議員生活を支えてもらった。
時事通信社の特派員の頃もいろいろあったが、
ケネディ大統領との記者会見や、ニクソンの
ウォーターゲート事件の取材は忘れられない。
美智子との結婚はこのあとである。
そして父の死亡。郷土栃木へ帰り、地元の方々
の強い要望によって、新しい郷土の創造に関ること
になる。1姫2太郎の子宝に恵まれ家庭生活も充実
してきた。 |

第2回誕生祝の日 |