今は絶版になってしまったダイヤモンド社出版
      「ことばへの旅」 森本哲郎著 を一部引用しています。
      青春時代の大切な本のひとつです。


 【1】  「ピュロンの話」
 古代ギリシアの懐疑論派の祖
とされているのが「ピュロン」です。
 モンテーニュの「随想録」の二巻十五章の快楽についての考察
 でピュロンの言葉
    
「反対の理屈を持たぬ理屈は存在しない」
 を引用しています。

 彼は紀元前300年ごろのアレクサンダーの東征に同行してインド
 まで来ています。そして、ギリシアにジャイナ教、バラモン教、
 ヒンズー教、仏教などのインド思想を持ち帰りました。

 彼には有名な逸話がありますよ。
 ある日、ピュロンが散歩していたとき、彼は、自分の師である
 老哲学者が沼に落ちているのを見かけました。
 ピュロンはそれをしばらく眺めていましたが、
 「師を助ける事は善である」と言う判断が正しい、と言う絶対的
 な根拠はない、と考えて、そのまま立ち去ってしまったと言うのです。
 しかも、この話には落ちもついていて、自力で這い上がってきた
 師の老哲学者は、弟子のピュロンに向かって、
 「おまえの考えは正しかった」と言ったそうです。

 また、彼は生涯、心を取り乱すことなく、いつも平静でしたが、
 たった1度だけ自分の原則を忘れた事があったそうです。それは、
 「犬に追われて木によじ登ったとき」だそうです。

 まあ、この話は嘘でしょうがね。
 でも、懐疑論の価値はなにより
 「狂信を防ぐ事です」
 ピュロンに付いてでした。

 でもね、ここで終わってしまっては、行けないんです。
 ここから先が問題なんですよね。

 それに関係する言葉が
「当為」なんです。ドイツ語で「SOLLEN」
 この当為とは、人間としては、為しても為さなくてもいい事、そんな
 問題に付いて考えます。すれば、人からは誉められるでしょう。
 でも、これとてもピュロンの言葉のように反対の理屈があるのです。
 誉める人がいれば、余計な事をと言う人もいるでしょう。
 しなくてもいい事です。義務はありません。
 そこで、あなたは、いや、僕は、為すべきか、為さざるべきかを考えた
 時に、為すべき事を為す事、それが
「当為」です。

 この考えによって、実は、行動に自主性が生まれます。
 行動力が生まれます。
 でなければ、してもいいが、しなくても良いのですから、しない、・・・
 でもここからは、なにも生まれないのです。失敗はしないでしょうが、
 代わりに進歩もありません。
 だから僕は言います、そして、行動します。

 これがピュロンと当為の考え方です。


【2】 「哲学について」


 カントの引用です。
 「人は哲学を学ぶ事は出来ない、ただ、哲学することを学びうるだけだ」
 つまり、哲学とは、知識ではなく、自分で考え、自分のものにしなければ
 何の意味も持たないのです。

 考える事、それこそが哲学の本質です。

 人間がどんなに知識を覚えたところで、百科事典やコンピューターには
 かなわないでしょう。
 ただコンピューターには「自分」と言うものがありません。

 その点、人間には僕のように、知識はお粗末でも「考える自分」がいます。
  「迷える自分」がいます。
 そうです。人間は「考える葦です」、「哲学する動物です」

 では「考える」とはどう言う事でしょうか?
 ここで、哲学とことばの関係が分かります。
 そうです、人間は言葉によって考えるのです。
 まさしく「はじめにことばありきです」

 人生とは何か? 幸福とは何か? 正義とは? 善とは? 美とは?
 自由とは? ・・・・・

 ところで、ビッグ・バン理論って、ご存知ですか、あれによれば、
 宇宙は「はじめにひかりありき」って事になります。・・・
 これも偶然かな?
 勿論、僕はクリスチャンではありません(神を頼らず)が「聖書」は好き。
 
 そして20世紀になって、哲学者は気づきます。
 ことばのあいまいさに。そして「ことばの迷宮に迷い込みます」
 
 例えば、「私は嘘つきだ」・・・・・このジレンマ!パラドックス!
 
 一方では、いまだになぞが解けない「宇宙の果て論」はことばを使えば
 「ことばの限界が、世界の、そして宇宙の果てである」と簡単明瞭にも
 言えます。


【3】 「人間 夢 そして 旅」


  まえがき・・
 人間ほど昔からいろいろと定義付けられてきたものはありません。
 アリストテレスは、人間を「政治的な動物」と言いましたし、
 パスカルは、あの有名なことば「考える葦」と言いました。
 ラッセルは、人間を「なかば社会的、なかば孤独な存在」と言い、
 バイロンは、「人間よ、なんじ、微笑と涙の振り子よ」と
 詩人らしい表現をしています。
 人間は「理性を持った動物」であり「道具を使う動物」でもあり、
 「遊ぶ動物」であり、また、「夢見る動物」でもあります。
 これらのことばは、どれをとっても、まことにうまく人間の本質を
 言い表していると感心もしますが、僕は、さらにもう一つ、
 人間は「飽きたらない動物」だ、とも言いたいのです。
 ダーウィンによれば、生物はすべて環境に適応できたものだけが、
 今日まで生きのびているのです。つまり、適者生存です。
 この「適応できた」ということばを単に生体の機能だけに限定せず、
 広く、心理的な適応、精神的な順応をも含めて考えると「馴れる」
 ということばに置き換えられます。
  そうなのです。  人間は「馴れる動物」です。
 事実、生物は生まれた瞬間から適応という行為を開始します。
 それができないことは死を意味するからです。人間とて、ここまでは
 同じですが、ここから先が違います。
 人間はいったん馴れてしまうと、馴れてしまったということが、
 生きているという実感を失わせるのです。環境に順応しようと努力し、
 順応してしまうと、こんどは、順応した環境が何ともやり切れなくなるのです。
 そして、それを否定せずにはいられなくなるのです。
 そこで人間は、その環境から脱出しようとして、違った環境を手に入れようと
 します。そして、違った環境に身を置くやいなや、再びその環境に馴れようと
 努力します。この繰り返しが人間の人生なのです。
 この繰り返しの過程で、順応してしまった環境が何ともやり切れなくなった
 とき、人間は、夢や希望について考えるのです。
  そしてまた、旅にでもいこうと考えるのです。飽き足らずにね。
  人間がもっとも人間らしいひとときでもあるのです。

 夢を見て、何か新しいものを、そう、それを仮に「おどろき」とでも
 言いましょう。

 少し柔らかく書きましょう

 僕の旅の目的は、おどろきです。
 山に登るのはね、峠に立ったときの、なんとも言えぬ、心地よさです。
 峠に立つと、今までの山道とは景色も一変して、心地よい、今までに
 感じなかった、「新しい風」を感じることが良くあります。

 その風は、時には恋しい人の「そよ風」であり、また時には、今までの
 自分に惜別し、そしてまた、「生まれ変わる」自分を励ましてもくれます。