郷 土 史
69回目の終戦記念日に戦争の事実を再認識

 女たちの戦争と平和資料館 (新宿区西早稲田)
  お年寄り約150人の顔写真が並ぶ。旧日本軍兵士から暴行を受けたと訴えた女性たち。どの顔にも深いしわが刻ま

れている。NPO法人「女性たちの戦争と平和人権基金」が2005年、戦争の女性に対する暴力を伝える国内初の資料

館として開設した。昨年の来場者は約2600人。スタッフによると、橋下徹大阪市長の慰安婦発言以降、来場者がふえ

た。中学生のための「慰安婦」展を開催中。
東京都戦没者霊苑 遺品展示室 (文京区春日) 
  展示室でせみ時雨が響く。フィリピンや硫黄島から持ち帰った旧日本軍兵士のさびた鉄かぶとや水筒が並ぶ。

 黄ばんだ「硫黄島からの手紙」。「星見れば はろかに遠く 雲見れば 付せぬ思ひ 去り行きし 君は問はねど…」。

恋人への思いか。丁寧な文字をつづった兵士は戦場で散った。 
 戦傷病者資料館「しょうけい館」 (千代田区九段南)
  義手や義足の展示や、野戦病院のジオラマがある。兵士3人に押えられ、治療台で傷病兵が痛みのあまり腰をの

けぞらせる様子は、人形とはいえ、思わず目を背ける。
昭和館 (千代田区九段南)企画展「空襲とくらし」 8月31日まで開催 
 火災の熱で変形したやかんや硬貨。でも、熱さの想像がつかない。常設の防空壕体験コーナーに座ると、空襲警

報が鳴り響き、爆撃の振動が尻にびりびりと伝わる。本当の空襲なら生きた心地はしない。「焼夷弾やB29の怖さが

実感できる」。
 平和祈念展示資料館 (新宿区西新宿)
  ここでは、シベリアに抑留された兵士が使ったぼろぼろの防寒外套が展示してある。レプリカを着ると意外に重い。

だが、これで極寒の冬を越せたのか。

 収容所のジオラマで、黒パンを切り分ける人形を、他の人形が凝視していた。平等に分けるか監視しているようだ。

栄養不足で顔は土気色、目元やほほがこけている。「互いに不信の目を向けあいながら強制労働に耐える生活なん

て想像付かない」。


 戦後69年、来年は敗戦から70年
                        
                       1992年5月5日 茨城新聞 県南土浦県西版

    空中戦で散った空の勇士身元判明  明野町民らの努力実る  予科練仲間、“再会”果たす

 終戦間際の昭和20年6月、真壁郡明野町上空で米軍機に撃墜され、同町鍋山に無名兵士として眠り続けていた

航空兵の身元が分かり、このほど、同期の予科練仲間らが慰霊祭を行った。「戦死の地」として石碑を建て、この

“英霊”を守ってきた地元の人たちが「何とか遺族に合わせてあげたい」とやっと探し当てたもので、一足先に予科

練仲間が戦後47年ぶりに再会を果たした。遺族も今月23日に「戦死の地」を訪れる。

 米軍のP51と死闘

 身元の分からなかった航空兵は、昭和20年6月23日、明野町上空で一人乗りの戦闘機「紫電」で米軍機のP51

と激しい空中戦を演じた末に、同町鍋山の大木さん方の水田に墜落し戦死した。

 この戦死の際、航空兵はパラシュートに「谷口」の姓が記されていただけで、他に身元を証明するようなものが

なかったため、無名兵士として当時葬られたという。

 水田の一角に慰霊碑

 大木さん方では、戦闘機が墜落した水田の一角に、当時から自然石で墓標をつくり英霊を守り続けてきた。昨年

11月には、大木さんと同鍋山、農業石崎さんの二人が「故谷口航空兵戦死の地」として立派な慰霊碑を改めて建てた。

 石崎さんは、戦時中に大日本航空少年団の一員として飛行訓練を受けたことがあり、今も大空にあこがれ真壁町

の飛行場にあるフライングクラブ・スカイロード(荒川道男会長)で、ウルトラライトプレーンの操縦を楽しんでいる。

 同クラブの会員には、石崎さんのように空を飛ぶことが忘れられない元航空兵が数人おり、以前から明野町に落ち

た無名兵士のことは話題となっていた。

 慰霊碑を建てたことにより、「長い年月、遺族にも会えずさぞ無念だろう」という大木さんや石崎さんらの思いが届き、

同飛行クラブの会員で元予科練の航空兵だった下妻市本城町、元検察庁事務官、中山さんが本格的に故谷口航空

兵の身元捜しを始めた。

 谷口澄夫さんと判明

 中山さんは土浦市予科練記念館や予科練戦没者の顕彰・慰霊などを目的に設立された海原(うなばら)会の機関誌

などを調査。全国に散っている予科練仲間に手紙を送り、情報を寄せてもらうなど手を尽くし、約半年後、やっと谷口

航空兵の身元を見つけ出した。

 その調査によると、故谷口航空兵は、友部町にあった筑波航空隊に所属していた三重県尾鷲町出身の谷口澄夫一

飛曹(当時18歳)であったことが判明、海原会が出している戦没者名簿では、谷口航空兵は昭和20年6月23日に出撃

しており、本県上空で消息不明となっていた。

 同日の出撃では、谷口航空兵を含めて4機4人が未帰還となっており、このうち二人は茨城町と真壁町で見つかり

既に遺族のもとに帰っているが、601航空隊所属の黒川英雄航空兵の行方がいまだに分かっていないという。

 47年ぶり遺族が対面

 慰霊祭には、海原会の松田副会長をはじめ、予科練同期で同会の中村専務理事ら仲間5人が夫人を伴い訪れ、

故谷口航空兵の供養をした。海原会からは長い間、身元不明の戦死者を守り続けてきた大木さんと石崎さんに感

謝状を贈った。

 今月23日には、三重県から遺族が訪れるが、行方不明者として音信が途絶えてから47年ぶりにやっと対面がか

なう。

 敗戦までの下館


 昭和16年12月8日早朝、ラジオの臨時ニュースによって、米・英と戦闘状態に入ったことが報道された。

つづいて、軍艦マーチに合わせて緒戦の戦果が報道されるや、市民は興奮のるつぼにつつまれ、「万歳」を叫び

「鬼畜米英」を唱え合って歓喜した。旗行列と戦勝祝賀の式が町村長を中心にどこの地区でも行われ、毎月八日

を@「大詔奉戴日」とすることが「回覧板」によって徹底された。

 戦争の開始によって、町や村では防空訓練が一層強化され、どこの家でも「火叩き、ムシロ、水桶」が用意され

た、隣組長が防空班長となって一軒一軒を巡視し、夜は「灯火管制」がひかれ、光が漏れないように暗幕が下げら

れ暗黒の町となった。小学校では「退避訓練」が実施され「防空頭巾」の携帯が定められていた。

 昭和18年になると太平洋戦争の様相も一変し、下館にも緊迫した空気がただよい始めた。この年4月、アメリカ

航空機が初めて日本本土を空襲し、下館市民は戦争を一層身近なものとして感じとった。このころから町には軍

人や軍用トラックが目立ってきた。それにつれて招集令による動員も増加していった。12月には徴兵適齢期が一

年引き下げられ、出征兵の姿が毎日のように見られた。

 それまで特別扱いされていた町の学生や生徒は、同年6月に、「学徒戦時動員体制確立要綱」によって、大規模

に軍事工場や農村勤労に動員されるようになり、下館商業高校(現一高)の学生は、主に日立工業地区や下館飛

行場に動員され、下館女学校の学生は、「女子挺身隊」として大日本兵器伊讃美工場に働いた。下館国民学校の

生徒の一部は、塚田被服工場に動員され、軍服のミシン掛けに働いた、農村地区の学校では、春秋の農繁期に

は、「農繁休暇」をとり、一週間から10日ぐらい学校を休み農事手伝いをした。町の婦人会でも「農業勤労報国隊」

が組織され授農作業を実施した。下館市の学生はこうして書物を捨て、灰色の青春を送らねばならなかった。

 昭和19年7月、マリアナ諸島がアメリカの手に渡ると、下館も戦場化する傾向にあった。東京の空襲が激しくなる

につれ、親類や知人を求めて疎開するものが激増し、下館市の人口はこのとき膨張していった。また東京では学童

疎開が強制的に実施され、下館のA寺院にも収容された。

 昭和19年になると、B-29の大編隊が下館上空にもあらわれて、空襲のサイレンが毎日のように鳴った。町や村の

人は仕事を放棄して防空壕に退避した。19年の終わりごろにはB艦載機が飛来し、無差別的に銃撃を加えるように

なった。特に大田地区にあった下館飛行場は、敵機の攻撃目標となり何度も機銃掃射を受けた。また川島地区にあ

った大日本兵器伊讃美工場も、敵機の銃撃を受け徴用工員と女子挺身隊員数名が死亡するという事故があった。

 このころになると、町はさびれ人々は脅えていた。食料も空襲の激化に伴い窮迫し、配給は外米の二分搗きとなり

高粱、とうもろこし、押麦、さつまいもが大半となった。

 昭和20年3月にはアメリカ軍が沖縄に上陸し、「本土決戦」の声が町中に聞かれるようになった。下館小学校北校

舎は本土防衛軍の兵舎となり、各地区の小学校にも「国土防衛軍」が棲みつくようになった。

 本土決戦に備えて、下館のいたる所に「たこつぼ(塹壕)」が掘られた。「愛国婦人会」は「国防婦人会」となり、17歳

から45歳までの男子は「国土防衛軍」として編成された。小学校校庭では、竹槍を使って敵を倒す訓練が続いた。ま

た、決戦と呼応して血の一滴とばかり松の根を掘り、それを油(松根油)にした。

 やがて、敵機から降伏勧告のビラが撒かれ下館市民もこれを読むようになった。

 昭和20年8月15日、この日は朝から蒸し暑かった。アメリカ空軍のP-51による空襲は激烈を極めいていた。正午

にラジオを通じて重大放送があることを聞かされた。やがて正午になると、天皇の言葉が放送され戦争を中止する

という内容であった。はじめは半信半疑で誰も聞いた。しかし、この日をもって敵機襲来のサイレンが止み、日本は

敗れたという実感が徐々に湧いてきたのである。  
 @ たいしょうほうたいび

  日中戦争下、国民精神総動員運動の一環として生活規制・戦意高揚がはかられた日。1939年(昭和14年)9月1日

  から毎月1日に設定。太平洋戦争開始後の42年1月からは大詔奉戴日(毎月8日)に変更。

A 疎開校=東京都墨田区更生小学校300名3〜6年=妙西寺・極楽寺・星宮寺・堺屋旅館・三枡屋旅館・新小島旅

  館など=空襲激化に伴い、秋田に再疎開している。

  疎開校=東京都下落合落合小学校150名3〜6年=蔵副寺・光徳寺・專弥寺=空襲の激化に伴い、群馬に再疎開。

B かんさいき

  戦艦・巡洋艦などに積載し、カタパルト(軍艦の甲板のような狭い所から火薬・高圧蒸気などの力で飛行機を射出する

  装置。)によって発艦する航空機。航空母艦に搭載する艦上機を指す場合もある。

 2014・08・03
  軍事基地下館飛行場
 
  日華事変が起きて間もなくの昭和14年5月、旧大田村一帯に陸軍飛行場が建設された。最初は、熊谷陸軍飛行

学校下館文教所第六中隊が駐留していた。この飛行場を作るにあたって、はじめ陸軍省の係官が大田村長の所に

来て「明日大田山林に飛行場を作ることになったから、地区民と一緒に測量に立ち会ってほしい。」と言うことであった。

地区の関係者が次の朝早く行ってみるとすでに立木は切られ見渡す限りの原っぱになっていたというのである。(当時

の地区民の話)当時の軍の威光の一端がうかがえる。

 飛行場開設に当たっては、下館をはじめ近在の青年団、在郷軍人や隣組の人々の勤労奉仕が強制され、滑走路の

整備作業がなされた。滑走路は南北に1,600m程で、はじめ下士官候補生の操縦訓練が主であった。

 昭和16年になって、宇都宮飛行学校下館分校となり、少年飛行兵訓練の基地となった。

 昭和19年になると、日米の戦局もその様相が一変し、本土空襲が始められ、下館飛行場も迎撃基地となった。この

年後半になると硫黄島を基地としたアメリカのP−51機が飛来、下館飛行場は毎日のように機銃掃射が加えられた。

 昭和20年になると、本土決戦が唱えられ下館飛行場はその第一戦基地となった。

 このころから、日本の航空隊は戦闘機に爆弾を積み、敵に体当たりして自爆する「特別攻撃隊」(特攻隊)出撃した

そして、下館飛行場からも特攻隊が飛び立った。当時、下館飛行基地に嘱託軍医として勤務していた手塚亀寿氏(手

塚歯科医院長)の話によると、特攻隊は全国から集まり、少年飛行兵出身と予備学生で構成されたという。その名を

「第五七振武隊」「第五八振武隊」と称し、「悠久の大義に殉ずる」と遺言し「かつおぶし」と「冷酒」で出陣式を行い、沖

縄の空に散っていったということである。こうして、下館飛行場は終戦には、太平洋戦争の前進基地として活躍していた。

 終戦後、基地は閉塞され、荒れ放題の原野となったが、開発営団の手によって開拓部落となった。いま、この跡には

「靖空神社」の塔が建てられている。
 2024・08・03
      昭和16年日米経済力の比較
項  目  日 本  アメリカ  項  目  日 本  アメリカ 
石炭生産量  4,634千トン  133,203千トン  アルミニュウム生産高  55千トン  280千トン 
 原油生産高  23千トン 15,798千トン   自動車生産台数 2,750台  238,900台 
 発電量  2,787百万kw 13,732百万kw   商船現有トン数 4,475千トン   11,788千トン
 鉄・鉄合金生産高 359千トン  4,227千トン   鋼生産高 8.4千トン  76・9千トン 
 鉄鋼生産高 570千トン  6,262千トン   外国貿易輸出額 26.50億円  51.53億ドル 
 セメント生産高 486千トン  2,372千トン   外国貿易輸入額 28.98億円  43.74億ドル 


 現筑西市女方から出土した人面付壺型土器(人面土器)
市指定文化財

女方遺跡 (史跡)昭和51年6月28日指定

 女方遺跡は鬼怒川東岸の国道50号以南、関本街道沿いの女方地区に位置し、昭和14年から3年間を費

やし、医学博士 田中國男(当時宇都宮病院勤務)の発掘調査により、考古学界注目の遺跡となった。

 田中の調査は20u四方の範囲で、密集した41基の@土壙及び数基のA埋甕などが確認されている。当初

田中は、これらの土壙が弥生時代の祭祀跡であると報告しているが、その後の研究により近年ではB再葬墓

であったことが明らかにされている。

 同調査では縄文晩期から弥生中期にかけての土器を主体として、片刃磨製石斧、石包丁などの石製品、

碧玉製管玉38個、土偶などが出土した。土器の大部分を占める190点余は土壙の中から発見され、人面付

土器【(写真)クリック】も出土している。

 また、昭和29年、30年には日本大学考古研究グループにより同遺跡の発掘調査が行われ、多くの遺物が

同大学に収蔵されたが、未報告のためその詳細については不明である。

≪所在地 筑西市女方502の1〜642一帯。所有者 宮田≫

@ (どこう) 土を掘りくぼめて穴(土坑)をつくり、そこに人の遺体を納めて葬送した遺構土葬にと

      もなう世界的にポピュラーな埋葬に用いられた遺構であるが、日本では縄文時代〜弥生時

      代に多い墓の形式であり、その場合「土壙」とか「土壙墓」と表記される場合もある。


A (うめがめ) 縄文中期から後期にかけて関東平野や中央高地で見られる習俗で、縄文後期には中央高

      地では衰退し、関東平野では継続した。


B (さいそうぼ) 弥生時代の中期初頭から中ごろにかけて、関東地方中心として東北地方の中央部に

      至るまで分布する特殊埋葬遺跡直径内外の円形の平面をした竪穴を掘り、そこへ複数個

      の土器棺を埋め込んだもので、ときには、10個を超えることもある。これらの土器中

      に骨が遺存することはまれであるが、一般的に,高さ30〜40pの壺では、1個につ

      き1遺体分の骨が納めてあるらしいから、1竪穴2遺体以上の埋葬が同時に行われたと

      考えられる。

 市指定文化財

女方古墳群(神明塚) (史跡)昭和51年6月28日指定

 女方古墳群の一つ。かつては495uの小高い円墳であったとされるが、現在は約396uの楕円形となって

おり、頂上に神明社と糸沢家の氏神である稲荷社が祀られている。

 女方地区一帯は縄文、弥生時代からの大規模な集落地であったと推定され、加えて女方48塚と呼ばれる古

墳群が散在していた。

 「猫塚」「弁天塚」「日月塚」「十二天塚」「八幡塚」「神明塚」無名塚を含め48基が存在したというが、本田前の

3基が明治10年頃、他の古墳もその後の開発、発掘調査等で@湮滅した。現存するのは「神明塚」「猫塚」「弁

天塚」の3基のみである。

 なお、昭和27年、28年にかけて、日本大学考古学会が女方古墳群のうち円墳3基(藤の越・無名塚・日月塚

)を発掘調査した。中でも『藤の越』古墳からは、横穴式石室より人骨および鉄器片、墳丘をとりまく埴輪列より

筒14、馬2、人物7体分の埴輪が発見され、うち1体の人物埴輪の眉間にあたかもA白毫のごとき円珠が加え

られていた。このため仏教文化の影響を受けた人物表現と報告されたが、結髪中に挿入された櫛の退化表現

との意見もあり、結論は出ていない。

≪所在地 筑西市女方681。所有者 糸沢≫

@ (えんめつ) あとかたもなく消えてなくなること。

A (びゃくごう) 仏(如来)の眉間のやや上に生えているとされる白く長い毛 (動物毛)。右巻きに

       丸まっており、伸ばすと15尺(約4.5m)あるとされる。眉間白毫とも。三十二相

       の31番目であり、白毫相、眉間白毫相とも。仏教美術での表現から、膨らみや模様

       と誤解されることがあるが、誤りである。

 
  人面付壺型土器 (女方遺跡出土)

 田中國男による女方遺跡発掘調査(昭和14年から3年間) の際、同遺跡より出土、内部に管玉3個が副葬

されていた。人面付土器は再葬墓に特有の土器で、1900年の栃木県野沢遺跡出土例以来、19遺跡22例

以上が確認されている。

 女方出土の人面付土器は類例中最も精巧かつ代表的なもので、目、鼻、口、顎は粘土紐によって立体的に

表現され、目と口の周囲には@沈線による隈取がみられる。また隈取の一部には赤色顔料も認められ、弥生

人の入墨を想起させる。当初田中は女性を表現したものとしたが、確証はない。弥生時代中期、高さ69,5p。

 なお、未整理のものを含む女方出土の遺物は、田中により帝室博物館(現在の東京国立博物館)に寄贈さ

れ、その後同博物館の手により再整理が進められていたが、現在中断されており未発表のままとなっている。

 東京国立博物館所蔵。また、国立歴史民俗博物館をはじめ、大阪府立弥生文化博物館など数館がレプリカ

を所蔵している。 

@ (ちんせん) 土器の表面に箆(へら)、竹管などの道具で線を掘った文様。【沈線文】 
 
2014・05・13


      桜田門外の挙兵、新撰組、黒田官兵衛と筑西市のつながり

 ≪筑西市在住で郷土史研究者の桐原光明氏が、明野図書館の館報に寄せた原稿をご本人の承諾を頂き掲載

いたしました。≫


 平成25年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」に登場した新撰組副隊長土方歳三(内藤隼人)は会津戦争に加担

するが鳥羽伏見の戦い以後、江戸、流山、上野戦争から、宇都宮、白川、会津と戦うが、宇都宮に行くのにど

の藩を通ったのか重大な関心を持っていると、郷土史講座で話したところ、白石誠氏から、明野図書館で「幕

末大全」を調べたら、水街道から下妻を抜けて、下館藩を通り、二宮から宇都宮、会津に至ったという教示があ

った。新撰組とか土方の名前はないが、「下館市史」にも『去る17日徳川勢と相唱、凡そ千人余在所常州下館

城下へ押寄、中略、翌18日朝野州谷田貝を通りて宇都宮へまかり越し申候』とある。新撰組が下館の歴史に

つながっている。


 桜田門外の挙兵は日本の順路を巡り、尊皇攘夷・開国問題を顕在化したものである。

その実行部隊関鉄之介以下17名の水戸浪士と薩摩浪士1名の18名が行った。高橋多一郎、金子孫二郎らが

影の首謀者として活躍した。万延元年2月18日関鉄之介は笠間から下館間道を通り、小山から古河に出て、江

戸に入る。同じく、水戸を出奔し、下国井売薬商岩之進の案内で金子孫二郎・勇二郎親子、稲田重藏、佐藤鉄

三郎、飯村誠介は2月21日笠間から間道をたどり関本に来て、薬商塚田清兵衛宅に二泊して、さらに結城に泊

まり古河から江戸に入った。「桜田門外の変」吉村昭の本にある。日本の働きは筑西の働きにつながっている。


 平成26年のNHKの大河ドラマは「黒田官兵衛」である。荒木村重の有岡土牢に幽閉されて足を悪くしたりするが

、忠義心衰えることなく、信長、秀吉、家康に仕えた武将である。

 本能寺の変で、秀吉の天下取りに忠告し、関が原での小早川秀秋の裏切りに道を開いた軍略家である。彼と

下館藩との接点を探っている。水谷勝俊が文禄の役で、肥前名護屋城に駐屯したことはある。これが黒田官兵

衛と筑西のつながりの手がかりだ。

 郷土史は、日本の事件や人の動きと郷土のつながりを明らかにするものだ。

日本の歴史を考えるとはとりもなおさず郷土の歴史とのつながりを考えることになる。それを探す人こそ真の郷土

史研究者という。それを私は目指している。

 郷土の歴史が大好きで、本を読んだり、同好の人たちと話したり、時には研修旅行をしたりしていると、時を忘

れ、66歳という年齢を忘れてしまう。郷土史に感謝している。

 学ぶことは生きる力、知ることは慶びである。郷土史は、考え、調べるほど、謎が浮かび次から次へと調べる課

題が増えてくる。これからも課題を調べ、筑西市の都市形成と市民に役立つ郷土史を目指し頑張っていくつもりで

ある。

                                   (きりはら みつあき/郷土史研究者・知正学者)
2014/05/18 



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