論語を読む
(一)
子日わく、学んで時にこれを習う、亦説(ヨロコ)ぱしからずや 論語開巻第一の余りにも有名な一節である。かつて日本では、片手を折るに満たぬ童児が学問の事始めとして論語の素読を行う習わしがあった。衆知の通り、論語は孔子の言行や対話を録したもので、没後直門の弟子達によって編まれたものと言われる。西紀285年(応神天皇16年)に百済の王仁(ワニ)によって日本にもたらされた、とされる。日本最古の書「古事記」に先立つこと427年前、即ち日本人が手にした最初の書物ということになる。以来、1,700余年、日本人の生き方を律する倫理の書として読みつがれたこの外来の書は、すでに日本人の血肉と化し、「古典中の古典」と評されている。
◎注釈書
論語が現在の構成をとる以前、いわば原論語とでもいえるもの、「斉論」「魯論」それに孔子旧宅の壁中から発見された「古論語」の三本が存在していたらしい。その三本を張禹という人が校定した(張候論語)のを、後漢の儒者が受けつぎ注釈を施したのが今日の論語とされる。その時期の注釈については後で又ふれるとして、現在の論語研究の基礎となった「論語集解」(シッカイ)(四部叢刊3所収・以下集解と略)に、まず指を折らねばならない。三世紀半ば魏の何晏(カアン)が従来の八家の注を集め、自分の意見を加えたもので、俗に古注と呼ばれる。「集解」を補説するものとして、六世紀、梁の武帝の時、皇侃(オウガン)によって「論語義疏」(ギソ)(武内義雄校・同全集所収以下義疏と略)が書かれた。この書物は面白いことに、中国本家では早くから散佚していたのを、荻生徂徠の弟子根本伯修が足利学校の文庫で発見し、寛延3年(1750)版本にして本家に逆輸出され、清の学者達を大いに驚かしたといういわくつきである。「足利学校善本図録」にその陰影は見られる。十世紀宋代の学者刑モ(ケイヘイ)の「論語正義」も「義疏」の煩を略し「集解」を補説するものである。
「古注」に対して「新注」と呼ばれるもの、朱子の「論語集注」(シッチュウ)(朱子学大系7所収・以下集注と略)がそれで、朱子学の拡がりとともに絶対的な権威を持つようになり、論語は「聖人孔子」の人格と結び、読者をして実践を伴う倫理の書としての性格が確立することとなった。
富山房刊漢文大系の第1巻に収められている安井息軒の「論語集説」は、論語の経文毎に「集解」「義疏」「集注」等諸家の説を集めていて便利である。
日本に於ける論語享受の歴史は、林泰輔編「論語年譜」二冊に詳しい。これは書誌学的に見て大変な労作で、論語に少しでも関りのある史実・伝述は洩れなく集められている。日本・支那・西洋と分けて記述してあるので、日本の項を拾っていくだけで研究史ができあがる程詳細に調べられている。
本邦の論語出版は後村上天皇の正平年間に始まる。足利学校その他に現存する「正平版論語」がそれで、その流れをくむ双跋本に基いて出版されたのが「天文版論語」(複製あり)で、経文のみの無注本としては最も旧いものである。
奈良・平安にかけて、主として「古注」即ち「集解」を中心に読まれてきた。「集注」が日本に入ったのは、「論語年譜」によると花園天皇後期あたりと推定されている。室町期になると相当広く読まれるようになったようだ。さらに林羅山が江戸幕府の教学として朱子学を樹立するに及んで、教養としての論語はまず武士階級に拡がり、ついで寺小屋等の教育を通して一般庶民に浸透していく。だが朱子学の体質である厳しい倫理的規制に反発する古学派の伊藤仁斎に「論語古義」(四書注釈全書所収・以下「古義」と略)、荻生m徠に「論語徴」(徂徠全集3所収・以下「徴」と略)という彼我を通して見ても優れた注釈書が生まれたのは面白い。
仁斎は「古義」を通して、論語は宇宙第一の書である、と称揚し、孔子の元来の考えはもっと寛容であり、朱子学でいう「静」とか「敬」とかは朱子が勝手に言いだしたことで、いわば後人の曲学であり古義ではない、とする。一方「徴」は、論語が元来弟子の備忘の為に書き留められたもので、孔子の語り口そまゝとは限らないとし、朱子の個人的道徳論に反対し社会的道徳論を唱える。「古義」にも異論をはさみ、秦漢以前の古書に徴して解釈を付した。「古義」「徴」を調べるのに、松平頼寛「論語徴集覧」は非常に便利な本である。論語の経文毎に「集解」「集注」「古義」を全録し、それに徂徠の「徴」をあげて諸家の説を論義指摘したところを示している。
徂徠学の忠実な継承者、太宰春台には論語解釈の書が二種ある。徂徠死後十年、「徴」を補説するものとして考証の結論のみを記した簡略な「論語古訓」と、結論に至る思考過程を、諸資料を引用しつゝ詳述した「論語古訓外伝」二十巻がそれである。しかし、「徴」は独創的な見解を多く含むが故に、反駁の書も又多く、片山兼山「論語徴廃疾」もその一書である。他にも「日本儒林叢書」中には「非徂徠学」「非物氏」が、徂徠論難の書として収められている。
今世紀、我々は宋代以後千年の間人々の目に触れることのなかった、いまひとつの「古注」に接することができる。「鄭玄注論語」がそれである。鄭玄(ジョウゲン)は後漢時代の大儒で、彪大な古典の注を為した人である。だが今その多くは伝わらない。「鄭玄注論語」も亡佚の書の中に入る。散佚した書物を、引用された他の諸文献から拾いだし再構成することを輯佚という。鄭玄の注も「集解」その他の文献から拾い集められた「輯佚論語鄭氏注」(月洞譲)という労作がある。そういう輯佚本でしか見ることのできなかった「鄭玄注論語」は劇的な発見のされ方をする。今世紀初頭、フランスのP.ペリオによって敦煌石窟から発掘された四篇弱のものを始めとして、イギリスのA.スタィン、日本の大谷光瑞の派遣した探険隊によっても数行ずつ発見されている。さらに、これはつい最近、文化大革命で大揺れに揺れていた、中国・ウイグル自治区・トルフアンの墓地から発見された写本がある。卜天寿という、寺子屋に学ぶ十二才の少年の筆になる。これも四篇弱で、従来のものと併せ「鄭玄注論語」の大体半分が姿を現したことになる。平凡社によって、その完全な覆製が造られた。
そのト天寿が、書写本の巻末に少年らしいいたずら書きの詩を一篇残している。
今日は書を写しおわれり
先生遅きを嫌うことなかれ
明朝はこれ休日
とく放て、学生の帰るゆえに
まさに、いつの時代も同じである。
論語を読む (二)
高校生などの初学者には、時に漢文へのとんでもない誤解が生じることがあるようだ。「子曰」を「シイワク」と呼んでおいて、恰も中国語を学んでいるかのような錯角を持つのがそれである。むろん中国では「子曰」は中国音で読む訳で、「zi
yue」となる。中国語音を仮名で表記するのは無茶だそうだが、もう少し続けてみると「有朋自遠方来
不亦楽乎」はイオウ/ポン/ズ/ユエンファン/ラィ/プ/イ/ルォ/ホウであるが、現代の中国人にそのまゝ発音させ聞かせても、何のことだが意味がとれないだろう。現代中国語で表記すると大凡次のようになる。「有朋友従遠方来,不是很快楽的??」これはもう源氏物語と現代日本語との差どころではなさそうである。したがって「朋有(ともあり)遠方自(よ)り来る、亦楽しからずや」と読むのは日本語に訳して読んでいるわけで、中国古典を、語の順序を換えたり送り仮名を加えたりして、無理矢理日本語にして読むことを「訓読」といゝ、そうした日本語にするために附加した文章を「漢文」と呼んでいる。同文同種とはいうものゝ、言語体系の異る外国語を日本語として読む訳であるから、まして論語のような磨きぬかれた文章で、しかも凝縮した「語録」であれば、正確な語義を捉えるのはむつかしいのは当然である。そこに、おびただしい注釈書の生まれる所以もあるわけだ。江戸期の「古義」や「徴」を初めとする十二編の日本の代表的な注評釈書は「四書注釈全書・論語編1−6」に収められているが、それ以外にも儒家と名が付けば論語に言及しない人はあり得ないわけで、「近世漢学者伝記著作大事典」「近世儒林編年志」の記事はそのことを伝えてくれる。
「論語年譜」の序説に、論語に:関する「注釈評論若しくは翻刻せられたるもの尤も多く」「古今内外を通計する時はその数殆ど三千に垂んとす」と述べられている。近代に入っても日本漢学の流れをくむ論語研究ば衰えることなく続いていることを、この年譜は教えてくれる。
●口訳論語
論語という書物にはいったい何が書いてあるのか。答を急いで出したいムキには、口訳論語を一息で読み通すことを奨めたい。
まず「口語訳論語」(倉石武四郎
筑摩叢書・筑摩版世界文学大系69)をあげる。朱子の「新注」に沿った口語訳で、論語の口語訳としては最も古い。直訳の部分が太字、注の部分が細字で構成され、同じ文章の流れとして工夫されていて読み易い。序文の解説は恰好な入門手引、巻末の漢語・漢字索引も便利である。
同じ筑摩叢書の中に武内義雄訳注の論語も収められている。著者六十年の論語研究の上に立つ、厳密な校訂を経た本文と訳注からなる。訳注といっても所謂国文訳の意で、書き下し文と考えた方がよいかも知れない。従って初学者には少々手強い相手となろう。武内博士の仕事については後で又触れねばならぬが、現在その彪大な業績は全集(角川刊)として姿を現しつゝある。
次郎物語の著者下村湖人に「論語物語」「現代訳論語」(全集8巻所収)があり、湖人畢生の力作と評価されている。孔子と弟子たちの綴る情景を一編の詩篇にまとめあげたのが「論語物語」であり、晩年の湖人が、残された日々をかけ、一字一句を彫琢したというのが「現代訳論語」である。巻末永杉喜輔の解題に「これは論語の現代語訳ではない。論語の内容が現代に生きるようにと祈って書いたものである。」とある。東大では英文学を学んだ湖人だが、その思想の根底には出身地佐賀の葉隠と論語が流れていたようだ。
口訳論語としてはもう一冊変り種論語を加えておく。イシカワ・ヒコサク「カナモジロンゴ」がそれで、題名が示すように全文カタカナで表記されている。カナであるから、ちよっとでも難解な語彙を採ると意味が判らなくなる筈で、そういう意味ではおびただしいまでの論語評釈書の中で最も易しい訳文であると言ってよいかと思う。章節毎に番号が付してあるので本文との対応を見るのも楽である。
●日本漢学の流れ
近代の大儒三人の仕事、故事成語の簡野道明に「論語解義」、大漢和の諸橋轍次に「論語の講義」、斯文会の宇野哲人に「論語」(中国古典新書)がある。
簡野道明は早くから支那に渡り、彼の地の碩学と交りを持った。「論語解義」は昭和六年に初版を出し、爾来版を重ね、形を変え、刊行を続けている。且に、この世界に於ける隠れたベストセラーである。
「論語の講義」もまた、はじめ携帯に便利な小型本「掌中論語の講義」として世に出され、以後二十年間に三十版を数える。四十八年やゝ判型を大きく改めて刊行されたのが本書で、諸橋轍次著作集5巻にも再録されている。その後記に「筆者は偶々昭和二十七年から八年にかけて、この講義口授の筆録の業に従ったが、殆んど失明に近い状態で、論語二十篇五百章、悉く自家薬籠中のものとなし、諳んじて縦横に説き尽くされる恩師の姿に、驚嘆と今更の畏敬の念を禁じ得ないものがあった」とある。諸橋博士を失明に近い状態にまで追い込んだ大漢和辞典全十三巻の偉業について語る場所ではないが、十二巻末の博士の自跋と十三巻末の出版後記にだけは目を通していただきたい。すさまじい文章である。
宇野哲人「論語」(上・下二冊中国古典新書の内)は、東京湯島の聖堂構内で、毎月一回の連続講義を記録し活字に起したものである。口演筆録の性格上内容は判り易く説かれている。東大・文理大・実践女子大学長を歴任し、支那哲学概論、周易釈義、論語新釈等多数の著作を持つ大儒が、そのあとがきに「その時々に分ったつもりであったが、やはり本当に分ってはいなかったと思う。向後命のあらん限り、本当に論語を心読したい念願です」と述べている。令八十を超えた老碩学の言である。斯文会というのは、わが国に於て儒教思想を研究・普及する目的で設立された団体で、機関誌「斯文」を発行する他いろんな活動を行っているが、その中の行事のひとつに、毎年四月末日曜日の孔子祭に於ける講経(コウケイ))がある。講経というのは、論語の一章についての講義で、当代を代表する老儒によって行われる。上記宇野哲人他二十三氏による講経は「論語三十講」として上梓されている。単なる注釈にとどまらず、論語の現代的意義、あるいは論語を通しての文明批評となっているところに本書の意義もあるようだ。
論語講座全六巻(春陽堂1906)の内1巻と2巻が解釈編にあてられ、数人の共同執筆という形ちをとっているが、訓読に斯文会の国訳論語を、解釈に「集注」を採っている他一章毎に白話訳がついているのは珍しい。白話とは言うまでもないことだろうが、現代中国の口語の事である。執筆者は内野熊一郎・阿部吉雄・小林信明といった人達で、宇野・諸橋の衣鉢をつぐ人々の若き日の営為である。
明治書院の「新釈漢文大系1論語」は「論語三十講」にも出講している東北大学の吉田賢抗が担当している。同叢書は現在でも継続刊行中であるが、論語はその第一回配本として昭和三十五年に印行、三十版を超え紙型を変えたのを機に内容にも手が加えられた。語釈・通釈がやさしく、かつ詳しく書かれており、高校生・大学生の論語参考書としては最も親切な書物であろう。
こゝでも変り種論語を一冊。明治の実業家渋沢栄一に「論語講義」(講談社学術文庫全7巻)がある。一代の事業家が豊かな自己の半生に論語を照らしつゝ語っていて、その例話として語られる維新の英傑等の人物論や体験談が、「渋沢論語」として親しまれてきた理由の最たるものであろう。
●新しい視点
吉川幸次郎・貝塚茂樹といった人の仕事は、論語学史上に一時期を画する業績として高く評価されている。今日でこそ中国古典を中国語音で学ぶということは珍しいことでなくなっているが、大正末年から昭和初年にかゝる時代にそれを果たすのは大変な事であった。お若い頃二人とも北京留学という共通体験を持っている。中国文学者吉川幸次郎の仕事は、まず幼い頃の、素読という漢学者なら誰もが持つ経験を持っていないことなど、その出発点から日本漢学の流れとは異質であったようである。同全集第一巻の自跋に、中国語で話し、訓読は採らず、音と語序で読むということから始めたとある。その主張は「漢文の話」(全集二)「支那学の問題」(全集十七)に敷衍される。論語に関する論稿は、全集では四・五巻にまとめられている。第四巻の論語注評釈の仕事は、朝日新聞社の「中国古典選」に上・下二冊として編まれたもので、諸説を吟味しつゝ、一条一条を著者自身の言葉で読み説くのを、弟子の尾崎雄二郎が聞き役を兼ねつゝ筆記した。本文・書き下し・注釈と並び現代感覚を持つ名訳として誉高い。貝塚茂樹の論語は中央公論社「世界の名著
孔子孟子」に収められている。中国古代史学者としての訳業だけに、その序文に「孔子や弟子たちの生きていた紀元前五・六世紀の春秋末期の時代を明らかにし、その背景の上に彼らの人間を浮かびあがらせたいと企てたのである」とあり、その通り特色有る論語評釈書として「吉川論語」と並び評されている。本文は武内義雄の校本を採用している。吉川・貝塚両大家に奨められて桑原武夫が論語評釈の筆を染めている。筑摩書房の「中国詩文選」3巻に収められている。畠違いの仕事を初々しく、実に楽しげにこなしている。論語の読み方の一つではあろう。前掲、倉石武四郎の訳業も、中国古典の研究は中国語でという主張をさらに敷衍する。
論語を読む(三)
注釈書同様、論語を語る図書もまた多い。論語が日本人の生き方と不可分の関係にあっただけに、ある年令層以上の人々には、論語の持つ思想の肯定否定両面を含めて、それぞれの人生に影を落していることは否めないここのようである。そのことがまた、多くの人に論語について語らせる契機ともなっているのであるが、一方学問的なあるいは科学的照射に耐え得る論語研究書となると、そう多くは指を折れない。
●研究書
武内義雄「論語の研究」(岩波版・角川版全集)津田左右吉「論語と孔子の思想」(全集十四巻所収)の二著作は論語研究の画期的な業績として高く評価されている。昭和十四年まず武内義雄の論稿が世に出る。そこでは精緻な文献批判の下に、論語の各篇を一のまとまりと考え、それを古伝承と結びつけ解釈することによって成立事情を明らかにし、さらには孔子の思想へも迫ろうとする意図を持った。内容分析の結果、現在の論語は河間七
篇本・斉魯二篇本・斉人の伝えた七篇本・季子以下の三篇というふうにぱらぱらに分解され、無批判て論語の内容を受けとることができないことを論証した。
それから七年後、日本敗戦の一年目の昭和二十一年、「論語と孔子の思想」が出る。津田は武内の方法に反対して、論語をさらに一章毎に分解する。そして孔子なり弟子なりの語録を、後代の文献「孟子」とか「筍子」に見えることばと、ひとつひとつ対応させ比較検討する。その結果、論語は孔子のことばをそのまゝ記録したものでなく、後代の文献から拾われ再編集されたものが中心であると、結論する。永く聖典扱いを受けてきた書物だけに賛否の大変な反響を呼んだが、賛否を問わずこの二人の業績は論語本文研究の出発点として動かぬ地歩を築いた。こんな簡単な紹介の仕方をすることすら、この二巨人の仕事への冒涜と思えてならない。ぜひ原著作に直接当って見てほしい。学問とはこんなものなのかと改めて教えてくれるだろう。
この二著作は日本漢学の側よりも、むしろ西欧的な思弁を持つ思想家、西田幾太郎・和辻哲郎らに絶賛を浴びる。特に和辻は武内義雄の研究に触発されて「孔子」(大教育家文庫・全集六巻所収)を書くことになる。西欧的教養に育てられた著者か、そのフィロロジーの方法を駆使して書き上げたのが「孔子」で、武内の文献学的研究の成果をたくみに採り入れている。畑違いの場からのこの発言ほ吉川・貝塚等のシナ学者からも孔子研究の白眉として高い評価を受けている。
木村英一「孔子と論語」も師説(武内義雄)を享け発展させた労作である。論語各篇がどのような脈絡を持つかを明らかにしつゝ、各篇の構造と性格を実証的に追求しようとしている。
津田左右吉の学問に傾倒し、その影響を強く受け、さらに、第二次大戦中、中国に長期に亘って滞在し、直接民衆の風俗習慣にふれるという貴重な体験の上に立って渡辺卓「中国古代思想の研究」は成る。この大冊には副題が「孔子伝の形成と儒墨集団の思想と行動」とつき、題名が示すように孔子やその弟子たちにまつわる説話がどのように形成されていったかを追ったもので、著者の死後、木村英一の尽力によって刊行された。この二著は、今日の学界の論語あるいは孔子伝に関する研究の到達点を示すもの、と理解してよいかと思う。
孔子の唯一の伝記的史料とされるのが、司馬遷の「史記」中の「孔子生家」であるが、むしろ第一級の史料は論語そのものであること、これはいうまでもない。したがって論語を研究することは即孔子や弟子達について研究することにつながり、両者は不可分の関係にある。たゞ研究の主眼をどちらに置くかぐらいの差はあるので、こゝではもう少し孔子伝に主体を置いたものを並べて見る。
内野熊一郎他著「孔子」は清水書院の「人と思想」シリーズのために書かれたもので、高校生を対象としているので判り易く解説されている。「孔子伝」というより論語入門書と言った方が性格に近い。たゞそういう性格の本だけに、近代の西洋思想が論語をどのような受けとり方をしたかとか、現代中国でどのような評価を受けているか、といった記載があって便利である。
西洋思想と論語享受というテーマについては大変な学術的労作がある。比較文学の大著「中国思想のフランス西漸」(後藤末雄・東洋文庫所収全二巻)がそれで、日本文化の西欧への紹介者かヤソ会士であったように、中国文化の西漸もヤソ会士の手引による、とする。そのヤソ会士の通信を、何年もかかって読み解くことからこの労作は始まり、やかてモンテスキユー、ヴォルテール、ディドロ等十八世紀のフランス思想に、シナ思想がどのような影響を与えたかが明らかにされていく。孔子の思想がその根幹に据えられていることは附言するまでもなかろう。
現代中国の孔子評価については、文化大革命の嵐をくぐり抜け再評価されている現在であるが、その渦中、論語は焚書坑儒の時代と同様な受難の日々を送る。当時孔子批判の論拠となった二著をあげておく。郭沫若「十批判書」(邦訳名「中国古代の思想家たち一二巻)
馮友蘭「新編中国哲学史」(二巻)がその二冊である。
大漢和に全精力、全生涯を投じた諸橋轍次が八十才を超えてから、さらに八年間に亘って孔子伝を書き続けた。「如是我聞孔子伝」(著作集六巻)では、孔子を敬し、孔子その人になりきり、その生涯と人間像を語っている。いわば儒学に身を投じ生涯を捧げ尽した人間の信仰録と言ってよいかと思う。「孔子伝」に続いて「同拾遺」が書かれ、前者が年代順に、後者が内容別にまとめられて編まれている。
金文・甲骨文の研究者白川静にも「孔子伝」がある。孔子の人間像は固定されたものでなく、時代とともに書き換えられているが、論者の史観によって歪曲させてよいということでなく、孔子を歴史的な人格として捉え歴史性を明らかにすることが、孔子の生命の息吹きを現代によみがえらせる唯一の道だ、と説く。
H.G.クリール「孔子
その人とその伝説」はアメリカ人学者による孔子伝である。広く史料を渉猟し、デモクラティックな進歩的思想家として孔子をとらえ、人間像を描くことに成功している。外国人の書いたものの中では一番多く各書に引用されている。
吉川・貝塚の両大家にも、当然、孔子伝あるいは孔子研究に類する仕事はある。吉川幸次郎「中国の知恵
孔子について」は雑誌「新潮」に連載されたものを、同社一時間文庫の一つとしてまとめられたもので、全集の五巻にも再録されている。素朴よりも文明を、神よりも人間を、独断よりも実証を重んずる中国文明に深い敬意を表しつゝ、その源を孔子の思想に求めている。貝塚茂樹「孔子」(岩波新書)「古代中国の精神」は、訳注の仕事(世界の名著・孔子)もそうであったように孔子をその生きた時代に置き、孔子とともにものを思い問題を解決しようとする所に、この学者の仕事の一貫した特徴がある。
●概説書
いつものこういう文献解題の仕事とは並べ方が逆で、概説書・入門書が後になった。論語に関してほ、何はともあれ、口訳でもよいからまず読んでほしいという意味からである。
近事「唐抄本鄭玄注論語集成」を上梓した東北大学の金谷治に「論語の世界」(NHKブックス)がある。論語成立・受容史・孔子伝と従来の学界の成果が要領よくまとめられていて手頃な入門書となっている。貝塚茂樹「論語」(現代新書)は論語の各章を引用、論
じつゝ、現代の若者に何んとか論語を判ってもらおうと一所懸命に語りかける、著者の祈りに似た想いが伝わってくる本である。吉川幸次郎「論語について」、講談社学術文庫に納められた時のタイトルである。慶応大学での講演を筆録した標題著作の他に、NHKで放送された「古典講座論語」等三編を収めている。その中で吉川はくり返しくり返し、文学としての論語・散文詩としての論語の持つリズムの美しさを説く。かつての道徳のお手本から論語を解放し、詩的散文として、世界の古典として改めて提供された、それが著者の論語に関る仕事の最大の功績ではないかと思う。
中島敦「弟子」(全集二巻)を読んでいただくことが、くだくだしい凡百の入門書よりも論語が判るかも知れない。草稿の段階では 「子路」と題されたこの小説は、孔子と愛弟子・子路との交流が瑞々しく描かれている。湖人の「論語物語」と並んで是非読んでいただきたいものゝ一つである。
直接論語に限定することから離れて、「論語」を包含した上での中国古典、あるいは中国古代文化に関する入門書を一冊だけこゝに加えておく。朝日新聞社の「中国古典選」別巻として編まれた、吉川幸次郎対談集「古典への道」がそれで、対談の相手としては、井上靖・中野重治・桑原武夫・石川淳・石田英一郎・湯川秀樹等が名を連ね、本当の会話とは、本当の教養とは何かを教えてくれるだろう。
かつて論語の注釈書展示を行った際、今は故人となられた國學院大学栃木短大教授滝沢精一郎教授に解説文を頂戴したことがある。ここに再録して、掉尾を飾らせていただく。
論語は〈宇宙最大ノ書〉と云われる。それはキリスト教の〈聖典〉バィブルより、内包するものが大きく、その内容が新出のバィブルより一層身近に感ぜられるところにある。
そしてまた〈論語〉は悲しい書である。譬ば開巻第一頁、「学ンデコレヲ習フ」の章、〈学而〉章にしても、孔子の云わんとするところは〈人知ラズシテ慍ミズ、亦君子ナラズヤ〉にあった。孔子の時代は周王朝の末にあたる。孔子の門に学ぶ目的は今日の学校に学ぶと同じく、就職の際に有利な条件を取得するにあった。それが意に反し、思うところに就職口がない。三千と称される門弟の中には、不平を抱く者も少くなかった。厳しい社会状勢のもとにあって、孔子の斡旋も望むにまかせなかった。〈自分の能力を誰も知ってくれずとも、些かの不満も心に持つなく、機会を待って、更に努力する。こういう者がいたとしたら、君子の資格を備えているとして、良いのではなかろうか〉と云う。この
ように婉曲な□調で述べなければならなかったその心中は傷ましい。
更に論語が編纂されたのは、孔子の死後戦国に入ってからである。社会状勢はますます厳しさの度を加え、就職はどんなところでも、あれば良しとしなければならない時代であった。これが論語の冒頭に置かれた理由である。顔回は肺を病んで天折し、子路は戦で膾と斬り刻まれ、伯牛は癩を患った、惨ましい記述が論語に見える。西暦前のことが、今に脈うち、鼓動をさせて胸に迫る。論語の悲劇性はこれのみでない。秦の始皇帝の〈焚書坑儒〉の厄に遭遇しなければならなかった。論語は焼かれ、孔子の教を奉ずる学者は生きながら穴にうずめられた。孔子の旧宅が壊たれた時、蝌蚪文字をもって書かれた書物が壁中にあった。災厄を免れたテキストで、これを〈古論語〉と呼ぶ。幸いにも他の地方にも伝えられたものがあった。〈斉論〉〈魯論〉がこれである。この三種の異本が行なわれていたのであるが、中国最大の学者朱子が「集注」を作るに及んで、大いに世に行なわれ、元明清の三代にあっては、国家試験の出題書となり、これに応ずるものの必読書となった。
吾国に於ける伝来の始めは応神天皇の十六年、百済の王仁が千字文と共に奉ったによる。それよりその思想・語句は、詔勅法令はもちろん、書物の序や跋、詩や文章に使用され、従って鈔写が多く行われた。
論語の注に於て、漢唐間のものを〈古注〉と称し、宋以降のものを〈新注〉とする。新注がもたらされたのは鎌倉時代であるが、依然として古注も行われ、此処に夥しい解説書を生ずるに及んだのである。(以下略)
中国語音で学ぶ中国古典ということを、前に少し書いた。外国の古典を学ぶのにその国の言語を以ってする、それは当り前のことである。しかし中国古典に関する限り、我々の祖先は訓読という直訳法を発明し、語学の扶けなしに中国古代の叡知を享受してきた。さらに又、漢文訓読は日本語の骨格をつくり、贅肉を削りとる働きももった。訓読を捨てることは、我々の祖先の営為一文化遺産を全否定することにつながりはしないか。中国語音で学ふ「中国古典」の研究と、訓読で学ぶ「日本に於ける中国古典の享受」の研究が共存されてよい、と私は考える。
|