![]()
藤岡町は、栃木県の南端に位置し、都心から60キロ圏にあり、昭和30年3月に藤岡町、部屋村、赤麻村、三鴨村が合併して藤岡町ができました。町の約4割を渡良瀬遊水地が占めています。草花が咲き、野鳥や川魚などが生息し、ヨシが繁り、のどかな楽園です。その後平成22年3月29日栃木市・大平町・都賀町と合併し、栃木市藤岡町になりました。
万葉集で名高い三毳山や渡良瀬遊水地など豊かな自然に恵まれ、また、貝塚や古墳、遺跡などが出土し、歴史の深い町です。
町には、渡良瀬遊水地の河川空間を活用した渡良瀬運動公園を始めとして、いろいろな広場があり、また、三毳山には、大規模な県立三毳山公園が整備されて、町民の憩いの場となっている。
![]() |
| 渡 良 瀬 遊 水 地 |
渡良瀬川上流には足尾銅山があり、明治10年の機械化による増産で、その鉱毒による被害が渡良瀬川沿岸だけではなく、利根川や江戸川沿岸にまで広がり、大きな社会問題となりました。しかし、鉱毒の被害は拡大する一方で、有名な田中正造による明治天皇への直訴など、いわゆる「足尾鉱毒事件」がおこり、渡良瀬川沿岸は不毛の地と化しました。
政府はその解決策として、渡良瀬川下流の低湿地帯を貯水池化とし、谷中村買収を具体化しました。(そのほか川辺村と利島村(現在は合併して加須市)が候補にあげられたが、廃村はまぬがれた。)
これは、鉱毒の問題を谷中村貯水池(実際は、足尾銅山から流された鉱毒の沈殿池)という治水対策に転嫁したものでした。谷中村民は貯水池建設と廃村に反対しましたが、政府は谷中村を3年間水づけにするなど手段を選ばず買収を進め、ついに明治39年(1906)7月明治政府により谷中村は廃村にさせられました。買収に応じた人々は、親戚縁者をたより、北海道や近隣町村へ次々と移転し、残留民19戸は、家々の強制破壊を受けながらも抵抗を続け、大正6年までこの地に踏みとどまりました。現在もわずかに残す水塚や樹々の中に、当時の面影を垣間見ることができます。
日本の近代史のなかでも、私たちに大きな教訓を残した「渡良瀬川の鉱毒事件」、日本ではじめてといわれる公害問題と谷中村の廃村という現実は、渡良瀬遊水地を見るとき、忘れてはならない時代の教訓です。
その後、昭和10、13、22年と大洪水の発生により、遊水地をより効果的に活用するため遊水地内を流れる渡良瀬川、思川、巴波川に沿つて新しく囲繞堤や越流堤を設け、大きな洪水の時だけ調節池の中に川の水を入れて、洪水を防ぐ事業を昭和38年に着工し、昭和45年に第1調節池、昭和47年に第2調節池、平成9年に第3調節池が完成しています。
現在の渡良瀬遊水地は、洪水調節、都市用水の供給、流水の正常な機能の維持のために重要な役割を果たしています。
時代の変化とともに、水辺の環境も整備され、谷中湖が出来て水上スポーツに興じる若者や、釣り糸をたれる太公望たちの姿があります。
広大なヨシ原があり、全国的に見ても希少価値の高い豊かな自然環境が残されています。ここには多数の動植物が生息・生育しており、絶滅が心配されているような種も数多く含まれています。
藤岡城
現在の東武鉄道藤岡駅付近から西方の旧渡良瀬川の川道に向けて飛び出した舌状台地に城は築かれていた。
起源は古く平将門が築城し、寛仁2年(1018)足利成行が再興し、中泉城と名付けた。その子孫が富士性さらに藤岡性に改称したとする。
天正5年(1577)藤岡佐渡守清房の時、佐野宗綱に攻められて落城。藤岡佐渡守清房は自害している。その後北条氏によって藤岡氏に戻され、遺児の又太郎が城主となったとされている。下の写真は、近くの繁桂寺にある、その藤岡佐渡守清房の供養塔です。
(左写真は藤岡城跡)
![]() |
![]() |
![]() |
| 繁 桂 寺 | 五 輪 塔 | 繁 桂 寺 本 堂 |
小南(しょうなん)城
藤岡町都賀字館にあり、願成寺山を西端とする東西に構築されている。現在は三杉川沿岸の田園地帯に浮かぶ丘陵であるが、城跡一帯は近代かなりに改変され、ほとんどが民家や畑地となっている。
太田城
藤岡町太田字附城で、蓮花川と国道50号が交差する地点にある。現在は畑地および稲荷神社境内となっている。
高取三階城
藤岡町甲字三階、現在工場の敷地となり、遺構として確認できるものはない。