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浜松宿は街道の面影は薄く、家康が青年期に居城していた所で、天守閣が再建され「野面積み」の石垣が今に伝える面影である。後の家康の天下で「出世城」と言われていたとか。当時は大きく栄えた所とあるが、本陣跡も石碑だけで、詳しく見聞することなく、次の宿へと急ぐ。今日の天候は雨である。気持ちも雨になり、ひたすら松並木の中を進むと舞阪宿に着いた。途中 私と同じように日本橋に向け歩いて通りすがる御仁に会釈する。物好きも私だけでは ないようだ。街道筋には安藤広重で馴染みの五十三次の絵が所々に並び、歩きながら楽しめる。本陣 脇本陣 格子戸の民家も見られ、又 資料館等からも古を偲ばれる。役場近くの常夜灯を過ぎると、浜名湖が見えてくる。浜名湖は昔、淡水湖で地震により海と繋がったと言う。広大な湖である。鰻の養殖で有名だが、そんな仕掛けは見当たらない。昼食に鰻を食したが栃木の鰻の方が遥かに旨い。湖岸渕には立派なホテルが立ち並んではいるが、どこも静観で寂しい風情であった。浜名湖を渡る北雁木は今切り渡しの渡船場跡として保存されていた。国道1号線沿いの幾つかの長い橋を渡ると、新居宿の有名な関所跡に着いた。当時のままの関所建物と言う。建物内には人形で関所の様子が再現されタイムスリップする事が出来る。傍に資料館もあり見学する。この関所は女性に大変厳しかったとのこと。バスでの観光客で賑わっても居た。敷地内で遺跡の発掘も行われていた??? ここで時間も費やしたので白須賀宿、二川宿へと見聞もそこそこに、吉田宿を目指し歩く。吉田は今の豊橋市であり大きな近代都市となり、民家の風情としての、昔の名残は余り無い。吉田城の城下町として栄え、又 戦国武将の戦いの舞台となったところ。今日の足止めは吉田宿とした。 |
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大きな豊橋を渡りすぐ左折して、御油宿に向け暫く歩くと、面影残る国指定の御油の松並木に出る。並木は今も変わらぬ姿で迎えてくれる。旅人、参勤交代の殿様や家来、商人、町人と行き交う人々を想像しながら、悦に歩いた。見事に整備保存された街道だ。弥次さん喜多さんが狐に騙された街道だが今でも狐が出そうな開発されていない所だ。又 御油は飯盛り女が大勢居たと言う。広重の絵には、旅人が太った2人の女性に引っぱり込まれようとしている場面が、滑稽に描かれている。この街道筋には沢山の古い家々が残り、往時の雰囲気を感じ取る事が出来る。歩を進め、次なる赤坂宿は今も江戸時代から営業を続けている旅篭 大橋屋があり、驚きである。町並みも古く、古の面影が一杯である。赤坂も宿場女郎が時代小説に良く出てくる所でもある。広重が描いた有名なソテツの絵もここの宿場である。藤川宿は棒鼻と呼ばれる宿の出入り口がある。当時のまま復元されている。又 塩の道と呼ばれた吉良道の分岐があり、追分として交通の要衝であったと言う。暫く松並木を歩くと、次は岡崎宿である。遅く到着するも、翌日の下見と城内を散策するが人影無く、疲れを癒す今日の宿泊まりとした。 |
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今日は快晴である。昨日見聞出来なかった城を時間をかけて見て回る。三河の国は家康の本拠地である。ちなみに、三河とは 豊川、大平川、矢作川 の三つの流れが所以とか。城下町として栄え、独特の町並みが今も残る。城を見学し家康の遺訓 「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし・・・」の碑が印象的である。改めて肝に銘ずる。矢作川麓の600年の伝統を誇る八丁味噌は有名で、工場見学、観光客で賑わっていた。土産として八丁味噌を自宅に送る。暫く歩くと池鯉鮒宿に着く。池に鯉と鮒が宿(住んでいる)しているとは、素敵な地名である。字に似合わず馬市、木綿市、で賑わい栄えたと言う。又 日本武尊を奉る知立神社の多宝塔は、国の重要文化財になっている。阿野の一里塚は当時のままで残る貴重な一里塚で写真に収める。又 桶狭間古戦場跡公園がある。今川義元と信長が戦った所だ。少し歩くと魔の宿有松の町並みには今も江戸時代の建物が残されている。鳴海宿は何となく通り過ぎ記憶が薄い。情景や風景が浮かばない。宮宿(名古屋)に近着くや高層ビルが現れ、街道の面影は見当たらず、人混みの名古屋駅に着く。時間も中途半端であり、泊るには弥次喜多気分が損なわれ、歩くにはまだ桑名宿まで、30Kmもあり、蛤を食べたくて電車に乗った。宮宿は熱田神宮の門前町で熱田宿とも言う。街道随一の規模を誇っていたと言う。宮は熱田神宮の宮の略字とか。残念ながら、宮の七里の渡し跡は見聞省略した。桑名で足止めとし、夕食は宿で取らず、蛤で一杯やる事にして、宿で紹介された食堂でたらふく食べた。食べ方も教示して頂き、美味かった事、美味かった事、大満足でした。 |
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桑名は七里の渡しの船着場として栄えた宿で、揖斐川河口の渡し跡に、当時の目印になったと言う常夜灯、伊勢神宮の一の鳥居が昔の旅風情を偲ばせる。対岸を見るに広大としており、今に見る港で船着場であったとは、想像もつかない。近くの桑名城址跡に 「 歴史を語る公園 」 九華公園があり、ミニ五十三次をイメージして作られた公園で市民の憩いの場になっている。街中を暫く歩くき、国道1号線を越えると、古い町並みが残っている。周囲の景色を見ながら、何本かの川を渡ると、四日市宿に着いた。この宿は煙突が立ち並び、昔の面影を偲ぶものは、殆ど無い。もっと事前調査をして歩けば、見る所も有るのだろうが・・・ マンネリ化してただ歩くのみとなっている。観光地ならぬ街道ゆえ、つい史跡も見逃してしまう。尚 ひたすら歩いていると、石薬師宿に着いた。ここも目立った所もなく、宿場の入口には何軒かの古い家も見られるが、小沢本陣跡が一際目に付く位である。何か美味い食べ物でも無いか !!! 考えながら歩いていると、庄野宿に着いてしまった。庄野は宿場時代の面影を沢山残している町並みである。至る所に格子窓の旅篭風造りの民家が残っており、古を存分に偲ばしてくれる。今時近代的な家に建て替えもせず、残している事に敬服する。今日の疲れも予定オーバーし、宿を取る事にしたが、街道筋のJR駅付近は、泊れそうな所も無く、タクシーを捕まえホンダの大きな工場がある民鉄駅前のホテルに案内して貰い、体を休めた。 |
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昨日に続き庄野の町並みを見て、時間を過ごす。今日は何となく歩が進まない。10時頃までぶらぶらする。復元された和田の一里塚を過ぎると、まもなく亀山宿である。ここも城下町であるが、今まで見てきた城下町とは趣が違う。町の中をつぶさに見ないから、何とも言えないが、城下町には見えない町並みで、城址の多聞櫓と、町屋川畔にたたずむ大きな常夜灯が唯一昔を偲ぶものである。何れの常夜灯も石で出来ており、立派で朽ちる事無く、昔のままの姿で匂いまでもを、伝える風情である。見る度に長い歴史を感じる。まもなく 関の小万のもたれ松を過ぎると、関宿である。ここも道幅が狭く、道路の両脇は連子格子の古い家並みが、東西 約 2Km位続き、今も美しい家並みを残している。これほどまでに残っている町並みも珍しく、貴重であり、又 不思議でもある。聞く所によると、国が保存地区に指定して居ると言う。住民の不便さも去る事ながら、町興し、歴史の重み、こだわり、誇り、愛着etc等 町全体で取り組んでいる姿に賞賛する。長く保存して欲しいものである。宿には数軒の資料館もあり、整備され、往時を忍ばしてくれる。鈴鹿峠を控え東西行き交う旅人が体を休めた宿で栄えたとのだろう。続けての古い町並みに午前中の時間浪費はもったいなく思った。今日の宿は小高い山にある国民宿舎関ロッジにした。 |
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今日は鈴鹿峠越えの麓の坂下宿に向う。暫く国道を歩き、筆捨て山の標柱を過ぎ、鈴鹿馬子会館前を進むと、坂下宿である。この宿は 本陣、脇本陣、の規模も街道有数のものであったという。特に松屋本陣は東海道で最大であったという。他に大竹屋、梅屋本陣と、本陣を屋号で名乗る例は少なく、3軒とも参勤交代の大名行列はこの宿に泊ったのだと言う。大水で流され今は、畑の中に碑が立つのみで、往時の賑わいは知る由もない。宿を抜けると、いよいよ鈴鹿峠である。街道を歩いていると、前方に猿の親子が戯れている。思い掛けない光景にカメラに収める。坂道 27 曲がりを登ると広い平地に出た。峠には今までに見たことも無い巨大な石灯篭が立っており、遠くからも判る旅人の目印になったのであろう。昔の人は動力も無いのに、どうやって造ったのか考えさせられる。ここで汗を払い一服して下り坂を行くと、国道と合流し間も無く土山宿に出た。景色は江戸時代と変わらぬであろう山間の町で、昔ながらの町並みも今に残る。鈴鹿馬子歌は「 坂は照る照る 鈴鹿は曇る 合いの土山 雨が降る・・・ 」雨の多い所か。今日は晴れである。国道を暫く歩くと、道の駅あいの土山に指しかかる。観光客で賑わっていた。名物のかにが坂飴を買ったが、歯にくっ付いて舐めにくい。土産として持ち帰った。この宿の街道沿いの民家では、屋号看板があちこちで掲げられ、古の商売が想像できる町並みで、良く整備され印象強い。看板は行灯にもなっており、夜ともなれば、より映えるのであろう。国道を合流しながら、野洲川沿いを暫く進むと、水口宿である。ものの本によると、この宿では一年中 ドジョウ汁が食べれたと言う。水路の水口に地名からしてドジョウが集まったのだろうか。又 名物に干瓢がある。江戸時代の中頃、この地を領していた殿様が国替えで、下野の国 壬生に移った。その際 干瓢を持っていき、現在では気候風土が合ったのであろう栃木県が最大の産地になって居ると言う。不思議な縁である。心太(トコロテン)も一年中売っているとか。水口宿は当時の面影を残す多くの建物に、様々な資料館もあり、写真等も数多く残されており、一見に値する。時間的に詳しく見れないのが残念あり、今日の宿泊地とした。 |
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水口宿場を足早に発ち、街道は国道1号線を右手に見て進む。横田川とも呼ばれる野洲川に突き当たり、「 横田の大常夜灯 」の立つ渡し場に着いた。整備された記念公園風になっている。横田橋を渡り 暫くすると、石部宿に着いた。この宿の街道も道幅が狭く、昔の古い家並みが見られる。本陣跡の石碑と案内板、広重の絵のモニュメントがある。ここも町興しを上手に利用している様だ。暫く町並みを進むと、草津宿との中間地点に有名な和中散本舗に着く。徳川家康がこの地に差し掛かった時腹痛を起こし、この薬で痛みを和らげたと言う。名付けて和中散になったととの事。この薬は昭和20年代まで売れたと言う。本家の大角屋は堂々たる屋敷を構え、今も街道に古格ある豪商の姿を見ることが出来る。草津宿に近づくにつれ、新幹線のトンネル、草津線の電車やら、現在の姿が目に入り、現実に引き戻される。京の匂いも近づき足取り軽く草津宿に夕刻着く。今日の休み所とした。 |
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草津宿は東海道と中山道の分岐点で交通の要衝地であった。合流点には大きな碑も立っている。多くの旅人で賑わったであろう。昨日は夕刻遅く着いたので、復元された本陣館は見られなかった。現存する本陣としては日本最大級とか。見学は有料である。案内書によると、大名が宿泊した座敷や、湯殿が当時の姿に復元されて居ると言う。浅野内匠頭、徳川慶喜らの名前が宿帳に残って居ると言う。朝の内に見学しようと、楽しみにしていたが、開館時間が遅く、見学せずはやる気持ちで、次の宿へと出発する。本当に残念であった。宿を出ると道幅の狭い住宅地が暫く続き、松並木が所々に残る街道を歩く。瀬田川に架かる 「 瀬田の唐橋 」を渡る。橋は当時の面影残る造りになっている。橋を渡ると賑やかな通りとなり、弥次喜多気分んもだんだん薄くなりつつ、大津宿に着いた。大津は以前家族で来た事があり、琵琶湖畔に泊り懐かしい所だ。街道筋を離れて湖畔に出て見た。古から水をたたえた変わらぬ湖面を遠く見渡す。大津にも僅かながら街道筋には、古い民家が残されている。湖も船の交易にさぞ賑わった事だろう。暫く国道歩きとなり、歌枕として有名な逢坂の関を過ぎると、山を越える上り坂となる。国道に再度合流し車の通りも多くなり、排ガスで空気も悪い。急ぎ足で歩き国道より左の旧道に入った所が、山科の追分である。道標も立っている。少し歩を進めると、山科駅があった。赤穂浪士の大石蔵之助が一時居を構えたのは、この辺なのだろうか。この辺も道が狭く、古い民家が残っており歴史を感じる。京都に近づくや、三度大通りの交通量の多い道路歩きとなり、左の山間に大きなホテルを見ながら真っ直ぐに進んで、念願の京都三条大橋に着いた。鴨川に架かるこの橋も欄干の所々に葱坊主型の擬宝珠など、往時の面影を見ることが出来る。京都までよくぞ歩いたものと、達成感で一杯である。橋の上で道行く人にシャッターをお願いし、貴重な記念写真とした。今までひたすら歩き続けて着いてみると、もっと細かく見聞しておけば良かったとか、写真をもっと沢山撮っておけば良かったとか、反省と欲望が交錯する。歩いた距離は僅か500Kmであるが、まさに 日本の大動脈である。歩き見てきた町々は、夫々が歴史、風土、風情の顔を持ち、休む事無く希望に満ち溢れ、商業、工業、農業、とあらゆる産業の活動と住宅地、観光地、と特徴を生かしながら、役割を分担しているかの様に、脈々と息づき成長している。個の人間には限りある寿命であるが、その人間が400年の時の流れを止める事無く、今まで発展し続けているのである。人間の叡智が今後も無限の発展を遂げるよう祈り願っています。 |
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