「老人は夢を見、若者は幻を見る」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 ヨエル書3章1~5節
使徒言行録2章14~21節

 聖霊を受けたペトロが「三千人」(41節)以上もの人々に語りかけたことは「神は言われる。…わたしの霊をすべての人に注ぐ」(17節)ということでした。かつて主イエスが「あ
なたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(1章18節)と約束されたことが現実のものとなり、私たち一人一人は出来事を造り出していく創造的な「力」、事柄を打開していく圧倒的な「力」を持つ者へと造り変えられようとしています。
しかしこのとき、多くのユダヤ人たちは「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(17節)と言ってペトロをあざ笑いました。実際問題、私たちが夜寝ている間に見る夢、宝くじを買った時などに見る夢には非現実的な側面、荒唐無稽な側面があります。しかしだからと言って、夢を見ること、ビジョンを掲げることを止めてしまえば、それこそ未来を失うことになりかねません。

 ペトロの時代から遡ること数百年、預言者ヨエルの時代にも夢やビジョンが見失われそうになる状況がありました。「移住するいなご」「若いいなご」「食い荒らすいなご」「かみ食らういなご」(ヨエル1章4節)による荒廃がそれです。この問題を現代の文脈で読み解くなら
ば、爆発的な人口増加によって生じつつある食料やエネルギー不足ということになるでしょうか。ある人が「増えるから食べられなくなるのではなく、食べられないから増えるのだ」と指摘しているように、強欲による独り占めということがなくならない限り、この問題は解決しな
いのかもしれません。しかし、神は私たちが夢やビジョンを見失いそうになるときにこそ、夢やビジョンを用意して下さり、実現して下さいます。この御方と共に歩む限り、夢やビジョンは決して空しいものとはならないのです。
預言者ヨエルはいなごによる荒廃の中で語りました。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。…衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」(ヨエル2章12~13節)。聖霊が宿り、私たちを御支配なさるとき、私たちは悔い改めへと導かれます。これは恵み以外の何物でもありません。何故ならば、自らの過ちや失敗の上にキリストの十字架が立てられ、贖われていることを知った者はキリストの十字架の上に未来を築いていくことが出来るからです。人は荒廃を前にして立つことは出来なくても、神を前にして立つことは赦されているのです。

 「主はあなたたちを救うために秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。…麦打ち場は穀物に満ち、絞り場は新しい酒と油に溢れる」(ヨエル2章23~24節)。神に基づく夢やビジョンは主の日の礼拝における御言葉によって明らかにされています。御言葉に触れることによって過去に対する悔い改めと未来に対する夢やビジョンを与えられるのです。この悔い改めと夢やビジョンを持ち運ぶことこそ、教会の務めに他なりません。
ペトロの最初の説教の後では3000人の人が救われました(2章)。ステファノの説教の後ではサマリア伝道が開始されました(7章)。再びなされたペトロの説教の後では異邦人伝道が開始されました(10章)。初代教会の目覚ましい成長の背後にいつも御言葉があったことを思い起こしましょう。

(2008年5月11日の主日礼拝)

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