「主の山に、備えあり」

 

中家 盾(栃木教会牧師)

 聖書 創世記22章1~14節
    マタイによる福音書10章40~42節

 

 礼拝には、神から受け取る面と神へ献げる面の両面があります。<説教>や<聖餐式>などは神からの計り知ることのできない恵みを受け取るときですし、<讃美>や<信仰告白>や<献金>などは神からの計り知ることのできない恵みに応えるときです。マタイ福音書10章37節には「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」との御言葉が出てきますが、私たちはこの御言葉をどのように受け止める者でしょうか。 

 創世記22章には、アブラハムが晩年に神から受けた試練が出てきます。「あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行き…、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(2節)。何と恐ろしい神の命令でしょうか。「焼き尽くす献げ物」とは、自らの罪を悔い改めるために身代わりとして牛や羊や山羊や鳩などの動物を犠牲として殺し、火で燃やし、煙として神をなだめる旧約聖書時代の礼拝のあり方の表したものです。アブラハムの場合、献げるように命じられたものは動物ではなく、彼の愛する独り子でした。「七十五歳」(12章4節)のとき神の命令に従って生まれ故郷を離れたアブラハム。「百歳」(21章5節)のとき神の約束に基づいてイサクを与えられたアブラハム。その神の約束は反故にされ、アブラハムの未来は失われようとしています。
 しかし、試練はどんな人にも訪れるものです。偉大な信仰者ヨブも一夜にして財産を失い、健康を失い、愛する我が子を10人全て失いました。王ダビデも王座についた後、息子アブサロムの反逆を受け、これを下さなくてはなりませんでした。肝心なことは、最も理不尽な試練をも神からの試みとして捉え、神信頼と感謝と讃美を深めることができるか否かです。試みは私たちが神礼拝へと集って来る瞬間にももたらされます。仕事やつき合いを一時中断しなくてはなりません。怒りや妬みや苛立ちもどこかへ振り払わなくてはなりません。私たちは神礼拝へと集って来る中で「あなたが最も心を傾けているものを神の御前に差し出し、そのことを通して心からの神信頼と感謝と讃美を言い表すことが出来るか」と問われているのです。
 「次の朝早く、アブラハムは…息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって…遠くにその場所が見えた」(3~4節)。闇の経験を経たアブラハムが三日後に見出したものは「きっと神が備えてくださる」(8節)との信仰の境地でした。「たとえ全てを神に差し出したとしても、神の方では必ず配慮して下さる。だから心配しないで全てを神に差し出し、全てを神に委ねよう」というのです。「築き…並べ…縛(り)…載せ…伸ばし…取り…屠(る)」(9~10節)という一連の動作は淡々とした神服従を表しています。この神服従の先に「息子の代わり(の)焼き尽くす献げ物」(13節)があるのです。 

 犠牲を献げることは痛みを伴うことです。そのことは自分が犠牲を献げてみて初めて分かることです。私たちの教会が神の独り子という計り知ることのできない犠牲の上に成り立っていることを覚え、「ヤーウェ・イルエ…主の山に、備えあり」(14節)と確信をもって言い表すために、私たちは何を献げる者でしょうか。

(2008年6月29日の主日礼拝)

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