「いちじくの木から学びなさい」
中家 盾(栃木教会牧師)
聖書 イザヤ書64章1‐9節a
マルコによる福音書13章24‐37節
「待降節」とは「キリストが救い主として私たちの世に来て下さったことを喜び祝うと共に、やがて再び私たちの世に来て下さることを待ち望む期節」です。
それにしてもマルコ福音書13章は「救い主の到来」ということを何と厳しい口調で描いていることでしょう。「人の子が…来る…それらの日には…苦難(がある)」(26節、24節)と告げ、神殿崩壊、偽メシアの出現、戦争、天変地異、飢餓、暴君による圧政といった様々な事象を書き連ねています。ここに現れ出てくる暗さは紀元70年にもたらされたローマ帝国によるエルサレム神殿破壊、イスラエル滅亡と深く関係していますが、それ以外にも「救い主の到来」の遅延に対する落胆、「救い主の到来」に対する準備不足ということが関係しているように思われます。
訪れつつある大きな変化。その中で、主イエスが命じられたことは「いちじくの木から教えを学びなさい」(28節)ということです。コンピューター全盛の今の時代にあって、今更何をいちじくの木から学べというのでしょうか。しかし、真理は日常の何気ない一コマの中に隠されているものです。雨がしょぼしょぼと降り続く冷たく寒い冬が終わったと思ったら、次の日からは雨など一切降らないカーッと太陽が照りつける夏が始まる。それがイスラエルの気候なのですが、ここから二つの真理を見出すことが出来ます。一つは「どんなことにも必ず終わりは訪れる」という真理、もう一つは「どんな場合でも終わりは突然訪れる」という真理です。
私たち全ての者は必ず終わりの時を迎えるものです。千年もの間イスラエルの中心にあって人々の心を支え続けてきた壮麗なエルサレム神殿もあっけなく終わりの時を迎えました。しかし、あっけなく終わりの時を迎えたのはエルサレム神殿を破壊したローマ帝国の場合も同じです。そのような神の支配のあり方をご存知であった主イエスは「枝が固くなり、葉が枯れると、冬の近づいたことが分かる」と表現されるのではなく、「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」(28節)と表現されました。「神の支配の中で私たちの罪や悪は裁かれ滅ぼされる。しかし、それ以外の罪や悪も裁かれ滅ぼされるのであって、その先には新しい命を携えた主イエスが待っている」というのです。
真実に続くものを見据え、それと結び合わされて生きる者は新しい命を受けます。問題は「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(31節)と言われる御方をどのようにお迎えし、どのように結び合わされるかということです。繰り返し告げられていることは「目を覚ましていなさい」(33節、34節、35節、37節)ということです。「門番」(34節)のように自分に与えられている固有の責任を果たす。正義の光を灯して不正を明らかにし、真理へと人々を導く。希望の光を灯して世を明るくし、人々になすべき業をなさせる。これが「目を覚ましてい(る)」ということの中身です。しかし、まず何よりも先になすべきことは「目覚める」ということです。神の恵みに目覚める。命の尊さに目覚める。「門番」が交代をしながら皆で備えるように、私たちも相互の支え合いや交わりの中で真実に大切なものに目覚めましょう。
(2008年11月30日の主日礼拝)