「絶えず祈らなければ」
中家盾( 栃木教会牧師)
聖書 エレミヤ書3 1 章2 7 ~ 3 4 節
ルカによる福音書1 8 章1 ~ 8 節
1 0 月1 3 日( 水) ~ 1 5 日( 金) までの3 日間、第6 0 回大会が札幌北一条教会で行なわれました。前日の記念講演会では「現住陪餐会員数の減少や教師の不足。信仰の継承が進んでいない現状。その中で、現代社会に福音を送り届け、キリスト教を根づかせることは可能か」との課題が提示されました。翻って、初代教会はどうであったでしょうか。
ルカ1 8 章1 節に「気を落とさずに」とあるように、初代教会もローマ帝国からの迫害によって再臨信仰が後退し、信仰の継承者が脱落するという大変な事態が生じていました。
課題の克服へ向けて主イエスが語られた譬え話には、まず最初に「神を畏れず、人を人とも思わない」( 2 節、4 節)「不正な」( 6節) な裁判官が登場してきています。彼が傲慢で独りよがりな人物であり、賄賂などを受け取り、弱者をないがしろにする判決を下してきたことは容易に想像できることです。彼によって多くの人がしわ寄せを受けてきたことは「やもめ」がよく表しています。彼女こそ頼るべき全てのもの( 夫、土地、お金) を裁判官から奪い取られた人物に他なりません。ところが、皮肉なことに何も知らない彼女は、最後の砦と言わんばかりに裁判官に頼り続けてきたのです。
それにしても、ここに出てくる裁判官はどこかユーモラスな感じがします。恩着せがましいことは何一つ言わず、ただ「あのやもめは、うるさくてかなわない… ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」( 5 節) という理由で「彼女のために裁判をしてやろう」( 5 節) と言うのです。こんな我儘で、自分勝手な裁判官でいいのかと思わされますが、この裁判官こそ神の本質を最もよく指し示すのです。
7 節の「まして神は」という言葉からは「不正な裁判官」と「正しく慈悲深い裁き主である神」の対比が浮かび上がってきます。そうすることによって、神の正しさ、慈悲深さを強調しようとしているとも考えられます。しかし、「正しい慈悲深い裁判官」を登場させた上で、「『まして神は』もっと上だ」と言った方が説得力が増すのではないでしょうか。それならば、なぜ主イエスは「不正な裁判官」を譬え話に登場させたのでしょうか。
それは「不正な裁判官」の方が私たちの現実に即していると考えてのことです。「不正な裁判官で満ち溢れている私たちの世でさえ、一人一人が祈り求めれば、よい裁判をする者に神は造り変えて下さる」、この意外性こそ神が用意される救いの中身なのです。
今日の聖書には時間に関する言葉が幾つも出てきます。特に注目すべきは7 節の「いつまでもほうっておかれることがな( い)」という言葉であり、8 節の「速やかに裁いてくださる」という言葉です。つまり、「仕方がない。しかし、何とかなる。だから、もう少し待とう」と聖書は語るのです。
「気を落とさずに、絶えず祈らなければならない」( 1 節)。どんなに物質的に豊かで、楽しみに満ち溢れた所であっても、そこに希望がなければ、そこは地獄となります。反対に、どんなに物質的に貧しく、悲しみに満ち溢れた所であっても、そこに希望があれば、そこは天国となります。神が与えて下さる希望の内に歩みましょう。
( 2 0 1 0 年1 0 月1 7 日の主日礼拝)