「罪から解放されて」
中家 盾(栃木教会牧師)
聖書 創世記22章1~14節
ローマの信徒への手紙6章12~23節
創世記22章1節には「神はアブラハムを試された」という一文が出てきますが、ここに出てくる「試された」という言葉は「試験する」という意味で用いられる言葉です。試練は私たちの足りない部分を鍛えてくれるばかりか、方向転換を促し、これまでとは異なる世界や新しい次元に誘ってくれるものです。私たちは試練の中に隠された神の意図をすぐに受け止めることが出来る訳ではありませんが、「神は必要な全てを用意して下さる御方である」との信仰をもって歩み続けることは大切なことでしょう。
神がアブラハムに課した試練は大きなものでした。創世記22章の冒頭の所には「これらのことの後で」(1節)とあります。子供の誕生、家庭内不和の解消、井戸の安定的使用。全てがうまくいっていたのに、突如、奈落の底に突き落とされるような事態が生じたのです。神が「イサクを…焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(2節)とアブラハムに命じたのです。アブラハムにとって息子イサクは「あなたの息子」(2節)と言ったすぐ後で、「あなたの愛する独り子」と言い直すような唯一無二の存在です。その息子イサクを犠牲として神に献げなければならないのです。信仰者とは常に何かを犠牲として神に献げなければならない者なのでしょうか。
それでもアブラハムは神に対して従順でした。極めつけは息子イサクと二人きりになった時のことです。息子イサクから「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(7節)と問うた時、アブラハムは「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる」(8節)とのみ答え、「息子イサクを縛って…薪の上に載せ…刃物を取り、息子を屠ろうとし(まし)た」(9~10節)。
聖書は、このアブラハムの姿を「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」(12節)と高く評価しています。しかし、私たちは次の点で違和感を覚えます。一つは「アブラハムのように、全てを献げる信仰を貫き通すことは可能か」との違和感。もう一つは「自分の独り子ですら、自分の目的を達成する為には殺してしまうという残忍性を人間は持っているのではないか」との違和感です。創世記23章には「サラが死んだ」という記事が出てきます。90歳で息子イサクを生み、127歳で死んだ母サラ。22章におけるイサクは、計算上、30歳ということになります。もうすっかり成人していた息子イサクが老いた父アブラハムの言うことを黙って受け入れた。この犠牲的な信仰によって父アブラハムの信仰が成り立ったとも言えるのではないでしょうか。
神が、アブラハムに対して「独り子を犠牲として献げよ」という残酷で不条理なことを命じられたのはなぜでしょうか。それは誰かが自らを犠牲とし、残酷で不条理なことを負わなければ「悪と罪」は収束しないということを知っていたからです。その上で、神は息子イサクの代わりに雄羊を提供され、一つのことをアブラハムに示されました。それは「残酷で不条理なことを負う為に、神御自身は犠牲を用意される御方である。その犠牲とは、神の独り子、主イエス・キリストという小羊である」ということです。必要なものはもう全て神によって備えられているのです。
(2011年6月26日の主日礼拝)