「すべての顔から涙をぬぐい」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 イザヤ書25章1~9節
   フィリピの信徒への手紙4章1~9節


 イザヤ書24~27章は「イザヤ小黙示録」と呼ばれる部分に属する聖書個所です。時の頃は、恐るべき敵バビロンの侵入によってイスラエル民族・国家が粉々に壊されてしまった「バビロン捕囚」から五十年以上が過ぎた頃のことです。祖国イスラエルに再び戻って来た人々の上に投げかけられた言葉は次の言葉でした。「あなたは都を石塚とし/城壁のある町を瓦礫の山とし/異邦人の館を都から取り去られた」(2節)。ここには、いつ、どの町が、どのような理由で、「瓦礫の山」となったのかという説明はありません。あるのはただ一つ、「どんなに堅固に見えるものも永遠には続かない」ということです。
 一方、7~8節の所には「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし」との一文が出てきます。「顔を包んでいた布」「国を覆っていた布」とは珍しい言葉ですが、この言葉が言い表そうとしていることは何でしょうか。①家族を失った者の悲しみを表す「ベール」のことでしょうか。②それとも、戦争や災害によって死んでしまった者を包む「毛布」のことでしょうか。③そういった外面的なことも考えられますが、ここでは「家族を助けられなかった」との罪責感などに打ち震える内面的な姿、④更には、そういった深い苦悩に真正面から向き合おうとしない世間の無理解・無関心が表されているものと思われます。
 しかし、その中にあって言われていることは、神は「顔を包んでいた布」「国を覆っていた布」を拭い去って下さるということです。

 ところで、私たちにとって「終末論」とはどういう響きをもっている事柄でしょうか。今から10年ちょっと前、西暦が1000年代から2000年代に変わるという節目の時、世の人々は「終わり」ということに伴う苦難、破滅、喪失、死をおどろおどろしく騒ぎ立てました。しかし、考えようによっては「終わり」ということには喜ばしい側面が含まれているのではないでしょうか。例えば、「このことはもう既に決定済であって、もはやどうすることも出来ない」ともなれば、無気力にならざるを得ません。あるいは、その上に胡坐をかき、傲慢になる者も現れることでしょう。その点、終わりがあることを知っている人は違います。「ここに留まっていてはならない」と自らの限界を認める謙虚さを持ち合わせており、たどり着くべき所へ向けて真実の歩みを開始するはずです。

 今回、東日本大震災によって幾つもの「死」や「終わり」が引き起こされました。20,000人の死者・行方不明者。粉々になった家々。機能を失った町々。放置されることとなった田畑。それらは、今まで誰もが経験したことのない目を覆うような[特別な体験]だったはずです。しかし、その背後には「死」や「終わり」が持つ不条理や不可解さと戦ってきた一人一人の[普遍的な体験]があるはずであり、更には、キリストの十字架という[特別な体験]があるはずです。その一つ一つが重なり合うことを通して、私たちはより心を通い合わせる者となり、いかなる「死」や「終わり」の中にあっても、神の御手、他者との絆の中に入れられていることに気づかされるはずです。「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所/暑さを避ける陰となられる」(4節)との信仰に立って歩んでまいりましょう。

(2011年10月9日の主日礼拝)

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