「油の用意」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 ヨシュア記24章1~3節a、14~25節
    マタイによる福音書25章1~13節

教会の暦において、11月1日という日は「諸聖徒の日」と呼ばれる日です。プロテスタント教会は「キリスト以外の執り成し・救いを認めない」という立場から、マリアを初めとする諸聖人たちを特別視してきませんでした。それでもなお、この慣習が完全に失われていない理由は「今が、教会の暦における一番最後の時期にあたる」ということにあります。人生の終わりを迎えた諸聖徒たちが自らの命の総仕上げをなしつつ、次の者たちに引き継いでいったように、一年の総仕上げをなしつつ、次の一年に向けてよき備えをなすのです。

 そこで、主イエスは「ともし火を持って、花婿を迎えに出て行く…おとめ」(1節)のたとえ話をされました。神との結婚生活に入り、神の御心をよく聞き、神の愛をよく行うことが、人や国を真実に立て上げていく上で欠かせないと主イエスは考えたのです。
 たとえ話の途中には否定的な言葉も出てきます。例えば、5節の所には「ところが、花婿が来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」とあります。神との結婚生活から離れ、惰眠を貪るようになった結果、行く手を照らす光を欠いた不安や恐れの多い「真夜中」(6節)の闇が私たちを覆うようになったと言うのです。しかし、これで全てが破綻した訳ではありません。事実、おとめたちを覆った闇は「花婿だ。迎えに出なさい」(同)との声によって打ち破られています。
 問題は、花婿を出迎え、希望と喜びに満たされるであろうはずのおとめたちが「賢いおとめ」と「愚かなおとめ」の二種類に分けられている点です。私たちは皆、ともし火を持っている者です。しかし、どうでしょう。ふとした拍子に持っているともし火を消してしまうことがあるのではないでしょうか。その時、私たちはどうすればよいのでしょうか。ここで差が生じるのは「(予備の)油を用意してい(るか、いないか)」(3節)によってです。「予備の油」は「持っているともし火」よりは華々しいものではありません。しかし、このたとえ話が示しているように、私たちの人生においては備えること、待つこと、信じることが欠かせないのです。
 誰でも自分の花婿のことは真剣に迎えようとするものです。つまり、「愚かなおとめ」にとって今回の事柄はあくまでも他人の結婚、他人の婚宴に過ぎなかったのです。その点、私たちにおけるキリストに対する信仰はどうなっているでしょうか。真剣にキリストを愛すること、キリストから愛されることを求めているでしょうか。そして、そのことが人生の唯一の慰めとなっているでしょうか。

 ここで改めて注目したい部分が、13節の「だから、目を覚ましていなさい」との一節です。何か特別な備えをするというよりはむしろ、日々神との関係性を保ち続け、神からともし火の源となる恵みを頂き続ける。それが目を覚ましていることの中身と言えます。私たちは日々の生活の中で数多くの無関心、欠け、不誠実、愛のなさ、打算と出会いますが、それら一つ一つの小さな出来事の中に、私たちの信仰を問い、鍛える機会は含まれているのであって、私たちはそれら一つ一つの小さな出来事と真剣に向き合う必要があります。私たちの小さな一歩が永遠に連なる一歩となることを信じ、新しい一年へ向かって歩み出しましょう。

                                                            (2011年11月6日の主日礼拝)

説教集へ