「義の宿る新しい天と新しい地」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 イザヤ書40章1~11節
   ペトロの手紙二3章8~15節A

 アドベント・クランツの二つ目の蝋燭に光が灯され、徐々に明るさが増し加わるようになりました。しかし、それで全て先行きは明るいという訳にはいきません。むしろ、蝋燭の光を灯さなければならない程、私たちの世は暗いのであって、その暗さに対しては「真の光」(ヨハネ1章9節)としてのキリストの到来を待ち望み、自らを「世の光」(マタイ5章14節)として輝かしていく必要があることでしょう。

 さて、『ペトロの手紙二』については、聖書巻末の「新約聖書」という項目の所に「『ペトロの手紙1』は、迫害によって失意のうちにあるキリスト者を勇気づけ、『ペトロの手紙2』と『ユダの手紙』は、異端に対して信仰を純粋に保つように求める」と記されています。ローマ皇帝ネロ(54~68年)による偏執的な迫害…。更には、ドミティアヌス(81~91年)による組織的な迫害…。これらの迫害がいつ果てるともなく続き、信仰者たちは意気消沈しきっていました。
 その中で人々は思いました。「世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(4節)。「主は約束の実現を遅らせておられる」(9節)。「神の御子キリストが再びこの世に来て下さり、その主権を明らかにして下さると信じて待っていた。しかし、なかなかその時が来ず、事態は悪化するばかりだ。それならば、遣りたいように遣るしかない」と言いたいのです。しかし、終わりの時、全てが明らかにされる時が到来するということは恐ろしいことでもあります。一旦その時を迎えたならば、もはや遣り直すことも、覆すことも出来ないからです。そういう意味では、まだその時が来ていないということは、神の「憐れみ」(ローマ11章30~32節)によることなのであり、遣り直す猶予、遣り尽くす余地は残されているのです。
 それでは、その猶予・余地の中で私たち信仰者がなすべきことは何でしょうか。8節には次のことが記されています。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」。まず最初に確認しておきたい部分は「千年は一日のようです」の部分です。どんなに苦しい困難や試練の歳月も、過ぎ去ってみれば一瞬に過ぎない思いがしてくるのですから不思議と言えます。別な言い方をすれば、「困難や試練の歳月は何か事を成し遂げる最後の一瞬へと至る為に必要な年月である」ということになるでしょうか。全てのことは神の深い配慮に基づいて計画され、進められているのです。そうなった時、「一日は千年のようで(す)」の部分の意味も明らかになります。そうです。私たちの一日一日、一つ一つは神の救いの大事業を形作る上で欠かすことの出来ない一日一日、一つ一つなのです。今、その意義が分からなくても、やがてその意義は明らかにされることでしょう。

 「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいる」(13節)。無限の広がりを持ち、私たちを支えるはずの「天」(12節)も「自然界の諸要素」(同)もやがていつかは頼りにならなくなる時がくる。その中にあって、唯一頼りになる御方は神である。その御方の憐れみに基づく忍耐の御計画が口約束に終わってしまわぬよう、約束を賜る神御自身から離れない歩みをなしたいものです。

                                                     (2011年12月4日の主日礼拝の説教)

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